概要
1795年、プロイセンがフランス革命の政府と講和を結んだ年、71歳のカントは、平和条約の形をとった小さな本を出した。将来の戦争の種をひそかに残した条約は平和条約とはいえない。常備軍はいずれ全廃する。戦争のために国が借金をしてはならない。ほかの国の体制に力で口を出してはならない。そのうえで、どの国も市民が戦争の是非を決める共和的な体制をとり、自由な国々が連合を作るべきだと説いた。戦争の苦しみを負う市民が決めるなら、軽々しく戦争はしないはずだ、という理屈である。国際連盟や国際連合を構想する人々が、この本を読み返した。
場所
54.71°N 20.45°E · ロシア・カリーニングラード
関わった人(1)
イマヌエル・カントAD1724年4月22日–AD1804年2月12日 · 書いた本文
18世紀のヨーロッパでは、戦争は王たちの日常の仕事だった。領土や王位の継承をめぐって、国々は同盟を組み替えては戦い、講和を結んではまた戦った。講和の条約は、次の戦争までの休みにすぎなかった。フランスのサン=ピエール神父は、ヨーロッパの国々の連合を作って永遠の平和を保つ案を出したが、夢物語として笑われた。
1795年4月、プロイセンは、王を処刑したフランス革命の政府とバーゼルで講和を結び、戦争から抜けた。その年の秋、ケーニヒスベルクのイマヌエル・カントは、71歳で『永遠平和のために』を出した。題は、オランダの宿屋の看板の皮肉から取ったと、カントは冒頭で書いている。墓地の絵の上に「永遠の平和へ」と書かれた看板だった。
本は、平和条約の書き方をまねて、条項を並べる形をとった。最初の六つは、すぐにでも守るべき予備の条項である。将来の戦争の種をひそかに残した条約は、平和条約とみなしてはならない。独立した国を、相続や交換や売買で、ほかの国のものにしてはならない。常備軍は、時とともに全廃すべきである。戦争のために国の借金をしてはならない。ほかの国の体制や政府に、力ずくで干渉してはならない。戦争の最中でも、暗殺者を使ったり、降伏の約束を破ったりするような、のちの平和を不可能にするやり方をしてはならない。
続く三つの確定の条項が、平和の土台を描く。第一に、どの国の体制も、市民が法を作ることに加わる共和的なものであるべきだ。戦争をするかどうかを、戦場に出て、家を焼かれ、戦費を払う市民自身が決めるなら、国は軽々しく戦争を始めないだろう。第二に、国と国の関係は、自由な国々の連合に基づくべきだ。第三に、世界の市民としての権利は、よその国を訪れた人が敵として扱われない「もてなし」の権利に限られる。カントは、この権利を盾に他の大陸を奪ってきたヨーロッパの国々の振る舞いを厳しく批判している。
カントは、平和は人の善意からではなく、交易の利益や戦争の苦しみが人々に教えるものとして、ゆっくり来ると考えた。百年あまりのち、国際連盟の発足を構想した人々は、この本を読み返した。民主的な国どうしは戦争をしにくいという、20世紀の後半の研究者たちの議論も、この本に源をたどる。