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Event / できごと

カント『永遠平和のために』

Perpetual Peace: A Philosophical Sketch
AD1795年
重要度 4
ロシア帝国大英帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国デンマーク=ノルウェー中央アジアの諸ハン国ムガル帝国ネーデルラント連邦共和国ペルシアスウェーデンアフガニスタンオーストリア帝国ポーランド神聖ローマ帝国スペインモロッコAlgiersイギリスプロイセンバイエルンアイルランド王国両シチリア王国Tunisヴェネツィア共和国TripolitaniaMecklenburg-Strelitzサルデーニャ王国CyrenaicaザクセンAD1795年ケーニヒスベルク
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1795年の版図を描いています(30勢力)。

概要

1795年、プロイセンがフランス革命の政府と講和を結んだ年、71歳のカントは、平和条約の形をとった小さな本を出した。将来の戦争の種をひそかに残した条約は平和条約とはいえない。常備軍はいずれ全廃する。戦争のために国が借金をしてはならない。ほかの国の体制に力で口を出してはならない。そのうえで、どの国も市民が戦争の是非を決める共和的な体制をとり、自由な国々が連合を作るべきだと説いた。戦争の苦しみを負う市民が決めるなら、軽々しく戦争はしないはずだ、という理屈である。国際連盟や国際連合を構想する人々が、この本を読み返した。

場所

ケーニヒスベルク
54.71°N 20.45°E · ロシア・カリーニングラード

関わった人(1)

イマヌエル・カントAD1724年4月22日–AD1804年2月12日 · 書いた

本文

18世紀のヨーロッパでは、戦争は王たちの日常の仕事だった。領土や王位の継承をめぐって、国々は同盟を組み替えては戦い、講和を結んではまた戦った。講和の条約は、次の戦争までの休みにすぎなかった。フランスのサン=ピエール神父は、ヨーロッパの国々の連合を作って永遠の平和を保つ案を出したが、夢物語として笑われた。

1795年4月、プロイセンは、王を処刑したフランス革命の政府とバーゼルで講和を結び、戦争から抜けた。その年の秋、ケーニヒスベルクのイマヌエル・カントは、71歳で『永遠平和のために』を出した。題は、オランダの宿屋の看板の皮肉から取ったと、カントは冒頭で書いている。墓地の絵の上に「永遠の平和へ」と書かれた看板だった。

本は、平和条約の書き方をまねて、条項を並べる形をとった。最初の六つは、すぐにでも守るべき予備の条項である。将来の戦争の種をひそかに残した条約は、平和条約とみなしてはならない。独立した国を、相続や交換や売買で、ほかの国のものにしてはならない。常備軍は、時とともに全廃すべきである。戦争のために国の借金をしてはならない。ほかの国の体制や政府に、力ずくで干渉してはならない。戦争の最中でも、暗殺者を使ったり、降伏の約束を破ったりするような、のちの平和を不可能にするやり方をしてはならない。

続く三つの確定の条項が、平和の土台を描く。第一に、どの国の体制も、市民が法を作ることに加わる共和的なものであるべきだ。戦争をするかどうかを、戦場に出て、家を焼かれ、戦費を払う市民自身が決めるなら、国は軽々しく戦争を始めないだろう。第二に、国と国の関係は、自由な国々の連合に基づくべきだ。第三に、世界の市民としての権利は、よその国を訪れた人が敵として扱われない「もてなし」の権利に限られる。カントは、この権利を盾に他の大陸を奪ってきたヨーロッパの国々の振る舞いを厳しく批判している。

カントは、平和は人の善意からではなく、交易の利益や戦争の苦しみが人々に教えるものとして、ゆっくり来ると考えた。百年あまりのち、国際連盟の発足を構想した人々は、この本を読み返した。民主的な国どうしは戦争をしにくいという、20世紀の後半の研究者たちの議論も、この本に源をたどる。

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