ピュタゴラス
概要
数が世界の骨組みだと考える一団を率いた。定理の名で知られるが、それはバビロニアで千年前から使われていた。
所属
ギリシア諸ポリス関わったできごと(1)
第1回オリンピア競技BC776年(伝承) · のちにこの世界から出る本文
ピュタゴラスは一行も書き残していない。伝わっていることのほとんどは、弟子の弟子、さらにその後の人々が書いたものである。まとまった伝記は、死後700年以上たった紀元3〜4世紀のものしかない。だから、この人について語ることの多くには「〜と伝えられる」が付く。
生まれはエーゲ海東部のサモス島で、紀元前570年頃とされる。父ムネサルコスは宝石の彫刻師、あるいは商人だったという。若い頃にエジプトやバビロンを訪れて学んだという話が古くからあるが、確かめる手立ては無い。40歳の頃、僭主ポリュクラテスのサモスの支配を嫌って島を出た、と伝えられる。

向かった先は、南イタリアのギリシア人植民市クロトンだった。ここで人々を集め、共同体を作る。それは学派というより教団に近かった。入門者は財産を共同のものとし、決まった戒律に従って暮らした。豆を食べてはならない、白い雄鶏に触れてはならない、といった禁忌が伝わっている。初めの数年は口をきくことを許されなかったという話もあるが、後世の脚色の可能性がある。
教えの柱の一つは、魂の不死と輪廻だった。同時代の詩人クセノファネスが、それをからかった短い詩を残している。ピュタゴラスが打たれている子犬のそばを通りかかり、やめろ、それは友の魂だ、鳴き声で分かった、と言った、というものである。皮肉を込めた話だが、生前すでに輪廻の教えで知られていたことの、数少ない同時代の証言になっている。同じ頃の哲学者ヘラクレイトスは、多くを知っても知恵は身につかない、と名指しで批判した。

もう一つの柱が数だった。きっかけは音だったとされる。弦の長さを2対1にすると1オクターブ、3対2にすると五度、4対3にすると四度の、よく響き合う音が鳴る。耳に心地よいものが、小さな整数の比で決まっている。そこから、世界そのものが数の比でできている、という考えが生まれた。1、2、3、4の点を三角形に並べた「テトラクテュス」は、合計が完全な数10になるとして、誓いの対象にまでなった。天体の運行も音楽のように調和しているという「天球の音楽」の考えも、この学派に始まる。
その名を冠した定理、直角三角形の斜辺の二乗は他の二辺の二乗の和に等しい、という関係は、本人よりずっと前から知られていた。紀元前1800年頃のバビロニアの粘土板(プリンプトン322)には、この関係を満たす数の組が並んでいる(六十進法)。ピュタゴラス本人が一般的な証明を与えたかどうかも分からない。現存する最古の証明は、200年あまり後のエウクレイデスの『原論』にある(『原論』)。定理に名が付いたのは、学派の権威が後に大きくなったためと考えられている。

学派の中では、困った発見もあった。正方形の対角線の長さは、辺の長さと整数の比で表せない。いまで言う無理数である。すべては数の比だ、という教えの土台が揺らぐ。この秘密を外に漏らしたヒッパソスという弟子が、海で溺れ死んだ、あるいは沈められた、という話が残っている。ただしこれも後の時代の伝承で、どこまで本当かは分からない。
教団は宗教団体であると同時に、政治の集団でもあった。クロトンでは、その一員たちが政治の実権を握ったとされる。それに反発する人々が蜂起し、集会所が焼き討ちされた。ピュタゴラスはメタポンティオンへ逃れ、紀元前495年頃にそこで亡くなったと伝えられる。死に方については、豆畑を横切るのを拒んで追っ手に捕まった、という話まであり、はっきりしない。

後世への影響は大きい。数学を、実用の計算ではなく、それ自体を探究する学問として扱う姿勢は、この学派から始まったとされる。「哲学者」(知を愛する者)という言葉を初めて使ったのもピュタゴラスだ、という伝承がある。プラトンは弟子筋の数学者たちと親しく、魂の不死や数への敬意をその思想に取り込んだ(プラトンのアカデメイア)。アリストテレスは「ピュタゴラス派の人々」の説として、その考えを批判的にまとめている。
2000年後、ヨハネス・ケプラーは惑星の軌道に音の調和を探し、その研究がケプラーの法則につながった。宇宙は数で書かれている、という発想は、近代の科学にまで届いている。