『ソルフェリーノの思い出』
概要
北イタリアのソルフェリーノで、フランス・サルデーニャ軍とオーストリア軍が一日戦い、死傷者は数万にのぼった。商用で通りがかったジュネーヴの実業家アンリ・デュナンは、近くの町の教会に運び込まれた負傷兵が、手当てを受けられずに死んでいくのを見た。軍の衛生隊はわずかしかいない。彼は町の女たちを集め、敵のオーストリア兵も同じように手当てした。女たちは「みな兄弟」と言ったと伝えられる。三年後、彼は自費でその光景を本にし、戦争のたびに負傷者を助ける民間の団体を、平時から各国に作っておくべきだと書いた。
場所
45.37°N 10.57°E · イタリア・ロンバルディア州
本文
アンリ・デュナン(1828〜1910年)は、スイスのジュネーヴの信心深い家に生まれた。若いころから慈善の活動に熱心で、銀行で働いたのち、フランス領だったアルジェリアで製粉の事業を始めた。ところが、事業に欠かせない水の使用の許可がなかなか下りない。許可を左右できるのは、フランス皇帝ナポレオン3世である。1859年6月、その皇帝は、イタリアの統一を目指すサルデーニャ王国と手を結び、北イタリアでオーストリアと戦っていた。デュナンは皇帝に直接頼み込もうと、戦場の近くまで追いかけていった。戦争を見に行ったのではない。商談のために行ったのである。
1859年6月24日、ロンバルディアの丘陵地帯の村ソルフェリーノとその周辺で、フランスとサルデーニャの連合軍と、オーストリア軍がぶつかった。両軍合わせて30万人近い兵が、一日じゅう戦った。夕方、激しい雷雨の中でオーストリア軍は退いた。戦場には、死者と負傷者が合わせて数万人残された。

負傷者を運ぶ手が無かった。軍の衛生隊はわずかで、兵の数に比べて医者はひと握りしかいない。馬も荷車も足りなかった。6月の北イタリアは暑く、水も乏しい。多くの負傷兵は、戦場に何日も放っておかれた。
戦場に近いカスティリオーネ・デッレ・スティヴィエーレの町には、何千人もの負傷兵が運び込まれた。教会にも、民家にも、道ばたにも、傷ついた兵が横たえられた。翌日、そこに着いたデュナンが見たのは、手当てを受けないまま死んでいく兵たちだった。傷口にはうじが湧き、あちこちから水を求める声が上がっていた。
デュナンは町の女性たちを集めた。水を運び、傷を洗い、包帯を巻く。死を前にした兵のために、故郷の母親に宛てた手紙を代わりに書く。彼は自分の金で布や煙草や果物を買い込み、配って回った。町の教会には、敵であるオーストリアの兵も寝かされていた。女性たちは、彼らも同じように手当てした。「みんな兄弟だから」と口にしたと伝えられる。デュナンはのちに、捕虜になっていたオーストリア軍の医者を解放して手当てに加わらせるよう働きかけたとも書いている。
ジュネーヴに戻っても、デュナンはその光景を忘れられなかった。1862年、彼は『ソルフェリーノの思い出』を自費で出版した。前半は戦いの様子、後半は戦いの後の町の様子を、生々しく描いた。そして最後に、一つの提案を書いた。戦争が始まってからでは間に合わない。平時のうちから各国に、負傷者を救うための民間の団体を作り、訓練を受けた志願者を備えておくべきだ。そして国々は、その団体と負傷者を守ることを、互いに約束すべきだ、と。
デュナンはこの本を、ヨーロッパの王侯や将軍、大臣たちに送った。本は読まれ、各地の宮廷で話題になり、多くの言葉に訳された。翌1863年、ジュネーヴで、法律家ギュスターヴ・モワニエや軍人デュフール将軍らとデュナンを含む五人の委員会ができた。のちの赤十字国際委員会である。同じ年に開かれた会議を経て、1864年には負傷した兵士と、それを救護する人々を守る最初の条約が結ばれた(第一回ジュネーヴ条約)。白地に赤い十字の印が、救護の目印と定められた。
しかし、デュナン自身の運命は暗転した。アルジェリアの事業は行き詰まり、1867年に破産した。出資者に損をさせたとして、ジュネーヴの上流社会から締め出され、委員会からも身を引かされた。彼は貧しさの中で各地を転々とし、世間から忘れられていった。
1895年、スイス東部の小さな町ハイデンの養老院で、年老いたデュナンが暮らしているのを、一人の新聞記者が見つけた。記事は大きな反響を呼び、各地から支援が寄せられた。1901年、デュナンはフランスの平和運動家フレデリック・パシーとともに、最初のノーベル平和賞を受けた(ノーベル賞の始まり)。賞金にはほとんど手を付けず、遺言で慈善のために残したといわれる。1910年、ハイデンで死んだ。
デュナンは医者でも、軍人でも、役人でもなかった。商談のために通りがかった人である。だからこそ見えたものがあった。軍にとって、負傷兵はもう戦えない者である。町の人にとって、敵の兵は敵である。通りがかりの人の目には、どちらもただ、死にかけている人に見えた。
それより半世紀あまり前、ナポレオン軍の軍医ラレーは、身分ではなく傷の重い順に兵を診ると決めた(傷の重い順に診る)。デュナンの提案は、さらにその先へ進んだ。どちらの軍の兵かを問わないのである。この考えは、やがて日本の博愛社にも、のちに見たことを語ることを選んだ国境なき医師団にも受け継がれていく。