できごと

バクティ運動

Bhakti movement
AD700年 – AD1700年
期間を持つできごと重要度 4
バクティ運動に関わる図版:Meerabai (crop)
Meerabai (crop) Wikimedia Commons Raja Ravi Varma · Public domain

概要

儀式や身分ではなく、神への献身で救われると説いた。地方の言葉で歌われ、広く民に届く。

場所

タンジャーヴール
10.79°N 79.14°E · インド・タミルナードゥ州(チョーラ朝)

関わった人(3)

グル・ナーナクAD1469年–AD1539年9月22日 · 関わったミーラーバーイーAD1498年頃–AD1547年頃 · クリシュナへの信愛を歌ったカビールAD1440年頃–AD1518年頃 · 歌った

本文

古代インドの宗教では、神に近づく道は限られた人のものだった。ヴェーダの祭式はバラモンがサンスクリットで行い、その言葉を学べるのは上位の身分の男性だけだった。ウパニシャッドの成立が説いた解脱の道も、師について長く修行と思索を重ねる者のためのものである。そうした中で、もう一つの道が育っていった。祭式や学識ではなく、神への一途な愛と献身(バクティ)によって救われる、という考え方である。その源の一つは、神クリシュナが献身の道を説く『バガヴァッド・ギーター』に見られる。

それを人々の運動にしたのは、6世紀から9世紀ごろの南インド、タミルの地の詩人たちだった。ヴィシュヌ神を歌うアールワールと、シヴァ神を歌うナーヤナールと呼ばれる聖者たちである。彼らは寺から寺へと巡り、タミル語で神への恋の歌を歌った。神を恋人や主人、子どもとして思い、会えない苦しみと出会う喜びを率直に歌った。聖者の中には、牛飼いや狩人、低い身分の出身者もいたし、アーンダールのような女性もいた。

シヴァ派バクティの信者を表す銅合金像(タミル・ナードゥ、11世紀以降)
シヴァ派バクティの信者を表す銅合金像(タミル・ナードゥ、11世紀以降)Wikimedia Commons Michael McConville · CC BY 4.0

詩は寺院で歌われ、のちに聖典として集められた。11世紀、チョーラ朝が南インドに大きな勢力を築くと(チョーラ朝)、王たちはシヴァの寺院を盛んに建てた。タンジャーヴールの大寺院(タンジャーヴールの大寺院)でも、ナーヤナールの聖歌が歌われた。ヴィシュヌ派では、哲学者のラーマーヌジャが、神への献身を解脱への道として理論づけた。

運動はやがて北へ広がった。13世紀のマハーラーシュトラでは、ジュニャーネーシュワルが『ギーター』をマラーティー語で注釈し、仕立屋の出のナームデーヴらが続いた。12世紀のカンナダ語の地域では、バサヴァがシヴァへの献身を説き、身分の差を否定する共同体を作った。15世紀以降の北インドでは、ヒンディー語の諸方言で歌う聖者たちが現れた。

ティルッパットゥールのシヴァ寺院にあるナーヤナール像の回廊
ティルッパットゥールのシヴァ寺院にあるナーヤナール像の回廊Wikimedia Commons Ms Sarah Welch · CC0

その一人が、ヴァーラーナシーの織物職人だったカビールである。ムスリムの織工の家で育ったとされ、ヒンドゥーの偶像や巡礼も、イスラームの礼拝や断食も、形だけのものだと退けた。神は寺院にもモスクにもおらず、自分の内にいる、と歌った(カビールの詩)。皮革職人の出のラヴィダースも、同じように身分を超えた神の前での平等を歌った。ラージャスターンの王家に嫁いだミーラーバーイーは、クリシュナを夫と思い定め、婚家の反対を押し切って歌い踊ったと伝えられる。16世紀には、ベンガルのチャイタニヤが、クリシュナの名を唱えて歌い踊る集団の礼拝を広め、トゥルシーダースはラーマの物語を民衆の言葉で書き直した。

決定的だったのは言葉である。サンスクリットではなく、タミル語、マラーティー語、カンナダ語、ヒンディー語といった人々の話し言葉で歌われた。文字を読めない人も、歌を聞いて覚え、口ずさむことができる。宗教の言葉が、バラモンの学者の独占から離れた。バクティの歌は、多くのインドの言葉で最初の文学になり、いまも歌い継がれている。

ベンガルのナヴァドウィープの街でナーガル・キールタン(讃歌と踊り)を率いるチャイタンニヤ
ベンガルのナヴァドウィープの街でナーガル・キールタン(讃歌と踊り)を率いるチャイタンニヤWikimedia Commons Calcutta Art Studio · Public domain

同じ頃、インドには、イスラームの神秘主義者スーフィーたちが来ていた。彼らもまた、律法の形式よりも、神への愛と神との合一を説いた(その源流の一つはラービアと神への愛)。スーフィーの聖者の廟には、ヒンドゥーの人々も参った。バクティとスーフィーの間には、言葉や比喩の行き来があったと考えられている。15世紀の末、パンジャーブのグル・ナーナクは、ヒンドゥーでもムスリムでもない唯一の神への信仰を説き、シク教を開いた(グル・ナーナクとシク教の成立)。シク教の聖典には、ナーナク自身の詩と並んで、カビールやラヴィダース、ナームデーヴの詩も収められている。

バクティの運動は、身分制度そのものを壊したわけではない。低い身分の聖者が崇められても、社会の中での身分の差は残った。それでも、誰でも自分の言葉で直接神に向かえるという考えは、インドの宗教の姿を大きく変えた。今日のヒンドゥー教で、神の名を唱え、歌い、寺院で神像に花を捧げる信仰の多くは、この運動の中で形づくられたものである。

同じ時代のできごと

カルバラーの悲劇AD680年10月10日則天武后の即位AD690年岩のドームAD691年藤原京AD694年鐙と騎士AD700年頃渤海の建国AD698年条里AD8世紀氷室AD700年頃
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD700年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →