『沈黙の春』
概要
海洋生物学者レイチェル・カーソンが、農薬、特にDDTの生態系への影響を、平易な散文で書いた。冒頭は寓話である。ある町で、春が来ても鳥が鳴かない。彼女は乳癌を患いながら、4年かけて資料を集め、註を並べた。化学業界は、彼女を「ヒステリックな独身女性」と攻撃した。ケネディが諮問委員会を作り、報告書が彼女を支持した。1970年、環境保護庁の設立。1972年、アメリカでのDDTの農業使用が禁止された。
場所
40.71°N -74.01°E · アメリカ合衆国
関わった人(1)
レイチェル・カーソンAD1907年5月27日–AD1964年4月14日 · 書いた本文
DDTという物質は、1874年にはすでに合成されていた。しかし何の役に立つのか分からないまま、半世紀以上放っておかれた。1939年、スイスの化学会社ガイギーの研究者パウル・ヘルマン・ミュラーが、これに強い殺虫の力があることを見つけた。ごく少しの量で効き、一度撒けば何か月も効き続ける。当時使われていたヒ素やニコチンなどの殺虫剤に比べ、人や家畜がすぐに中毒を起こす危険は小さいように見えた。そのうえ安かった。
DDTは第二次世界大戦で大量に使われた。太平洋や地中海の戦場ではマラリアを運ぶ蚊を、ヨーロッパではシラミが運ぶ発疹チフスを抑えるためである。1943年末から翌年にかけて、連合軍が占領したナポリでチフスが流行したとき、100万人を超える市民の服の中にDDTの粉が吹きつけられ、流行は抑え込まれた。冬の都市で発疹チフスの流行を止めた初めての例とされる。1948年、ミュラーはノーベル生理学・医学賞を受けた。

戦後、DDTは農業と暮らしに一気に広まった。飛行機が畑の上を飛んでDDTを撒き、町の上や公園の上にも撒いた。消毒の霧を吹きながら走るトラックの後ろを子どもたちが追いかける写真が、当時の報道に残っている。家庭用の噴霧器にも、犬の首輪にも使われた。世界保健機関は1955年からマラリアの根絶を目指す計画を進め、家の壁にDDTを撒いて蚊を退治した(マラリア根絶計画)。効果は劇的だった。スリランカでは、1940年代に年に数百万人いた患者が、1960年代の初めには数十人にまで減った。南ヨーロッパやアメリカ、多くの島々から、マラリアが消えた。
その陰で起きていることに目を向けたのが、レイチェル・カーソンである。1907年、ペンシルベニア州の田舎の農場に生まれ、母から自然を観察する喜びを教わって育った。大学では初め文学を学んだが、生物学の授業に引き込まれて専攻を変えた。書くことと自然とのどちらを選ぶか迷ったが、自然が書く題材を与えてくれると気づいた、という意味のことを彼女は後に語っている。ジョンズ・ホプキンズ大学で修士号を取ったが、父と姉を相次いで亡くし、母と姉の遺した二人の姪を養うために博士課程を離れた。
1936年、彼女は連邦政府の漁業局に、専門職として採用された二人目の女性になった。最初の仕事は、海の生き物を紹介するラジオ番組の原稿を書くことだった。彼女が書いた海の紹介文があまりに見事だったので、上司は役所の刊行物にはもったいない、雑誌に送れと勧め、それが一般向けの雑誌に載った。1941年に最初の本『潮風の下で』を出し、1951年の『われらをめぐる海』は大きな成功を収めた。新聞のベストセラーの一覧に長く載り続け、多くの言葉に訳され、全米図書賞を受けた。彼女は役所を辞め、書くことに専念するようになった。
1958年、友人オルガ・ハキンズから一通の手紙が届いた。マサチューセッツ州の彼女の家の近くで、蚊を退治するために飛行機からDDTが撒かれ、その後、自宅の庭の小さな鳥の保護区で鳥が次々に死んでいるというのである。カーソンは調べ始めた。各地の研究者に手紙を書き、論文や報告書を読み、証言を集めた。仕事は4年に及んだ。その途中の1960年、彼女は乳癌と診断された。乳房を切除し、やがて癌は広がり、放射線の治療を受けた。彼女は病気を公にしなかった。癌の患者だから感情的になっている、と攻撃されることを予期していたからだとされる。
1962年6月、雑誌『ニューヨーカー』に3回にわたって連載され、9月に単行本として『沈黙の春』が出た。本は寓話で始まる。豊かな農場と花と鳥と魚のいる川に囲まれた、アメリカのある町。そこに奇妙な病が忍び寄り、家畜が死に、人が倒れ、やがて春が来ても鳥の声が聞こえなくなる。カーソンは、この町は実在しないが、これに似たことはアメリカのどこでも、世界のどこでも起きうると書いた。
続く章で、彼女は事実を一つずつ積み上げた。まず、生き物の体の中で濃くなっていくこと。水に溶けたわずかな農薬が、プランクトンに、小さな魚に、大きな魚に、そしてそれを食べる鳥へと受け渡されるうちに、何万倍にも濃くなっていく。次に、分解されにくいこと。DDTは土や水や生き物の脂肪の中に長く残り、人間の母乳からも見つかっていた。そして、害虫がやがて薬に強くなること。撒けば撒くほど薬に強い虫が生き残り、しかも害虫を食べる天敵のほうが先に死ぬので、かえって害虫が増えることがある。効かなくなればもっと強い薬を撒く、という悪い循環である。
彼女はさらに、この問題を権利の問題として語った。誰も私たちの同意を得ずに、身の回りに毒をまき散らしている。致死的な毒から守られる権利が憲法に書かれていないのは、私たちの祖先がそんな事態を想像できなかったからにすぎない、という趣旨のことを書いた。ただし彼女は、化学的な殺虫剤をすべて禁じよと主張したわけではない。害がほとんど調べられないまま、強力な化学物質が無差別に使われていることを問題にしたのであり、天敵を使う方法や、虫の性質を利用する方法など、別のやり方にも一章を割いた。
化学業界の反応は激しかった。ある化学会社は、出版社を訴えると脅した。別の大手の会社は、農薬が使えなくなった世界で虫と病気が人々を襲うという、この本をもじった小冊子を作って配った。業界団体は多額の費用をかけて反論の宣伝を行った。彼女はヒステリックな女、自然の狂信者と呼ばれた。元農務長官が、子どものいない独身の女性がなぜ遺伝のことを気にするのか、と言ったという話も伝わっている。科学の立場からの反論もあったが、その多くに、彼女が女性であり独身であることへのあざけりが混じっていた。
時機も重なった。連載が始まった1962年の夏、アメリカの新聞は、睡眠薬として売られていたサリドマイドが、ヨーロッパなどで手足に障害のある赤ちゃんを数多く生んでいたことを大きく報じていた。アメリカでは、食品医薬品局の審査官フランシス・ケルシーが承認を押しとどめたため、被害は小さく抑えられていた。安全と言われた化学物質が人の体に思いがけない害を及ぼしうることを、人々は身近な問題として感じ始めていた。
本はよく売れ、世論が動いた。1962年8月、ジョン・F・ケネディ大統領は記者会見で農薬について問われ、カーソンの本もきっかけになって、大統領の科学諮問委員会に調査を命じたと答えた。1963年5月に出た委員会の報告は、彼女の主張を大筋で支持した。翌6月、彼女は上院の委員会で証言した。癌はすでに骨にまで広がり、体は弱っていたが、そのことを人に明かさないまま、市民が知る権利と身を守る権利を訴えた。
1964年4月14日、カーソンは56歳で亡くなった。『沈黙の春』の出版から1年半あまり後のことだった。彼女が見ることのなかった変化は、その後に続いた。1970年4月には第1回のアースデイに全米で約2000万人が参加し、同じ年の暮れ、連邦政府に環境保護庁が生まれた。1972年、環境保護庁はアメリカ国内でのDDTの農業への使用を禁じた。1973年には絶滅の危機にある生き物を守る法律ができた。2001年には、分解されにくく体にたまる化学物質を国際的に規制する条約が結ばれ、DDTもその対象になった。ただし、マラリアを防ぐために家の中の壁に撒くことは、例外として認められている。同じころ日本でも、水俣病をはじめとする公害が、化学物質と生き物の体の関係を突きつけていた。
その後、カーソンがDDTを禁止させたせいでアフリカで何千万人もがマラリアで死んだ、という主張が繰り返されるようになった。この主張には誤りが多い。カーソンはDDTの全面禁止を求めていない。1972年の禁止はアメリカ国内の農業での使用に限られ、マラリア対策は対象外だった。世界のマラリア根絶計画が行き詰まった大きな理由は、蚊がDDTに強くなったこと、資金が続かなかったこと、各国の保健の仕組みが弱かったことにある。スリランカでも、散布をやめた後の1960年代の終わりにマラリアが再び大流行した。そして、農業で大量に撒けば虫が薬に強くなり、本当に必要なところで効かなくなると警告したのは、ほかならぬカーソンだった。
カーソンの警告の一部は、その後の研究で具体的に確かめられた。1960年代の終わりから、DDTが体の中で変わってできる物質が、ワシやハヤブサ、ペリカンなどの鳥の卵の殻を薄くし、親鳥が抱くと卵が割れてしまうことが明らかになった。アメリカの国の鳥であるハクトウワシは、一時は本土で数百つがいにまで減った。DDTの使用が止まると数はしだいに回復し、2007年には絶滅の危機にある生き物の一覧から外された。一方で、彼女が本の中で論じた癌との関係のように、その後の研究で評価が分かれたり、見方が改められたりした点もある。
『沈黙の春』が変えたのは、一つの物質の扱いだけではない。それまでの社会は、害がはっきり証明されない限り新しい技術を使ってよいと考えていた。この本の後、技術を使う側が安全を示す責任を負うべきだという考えが広がり、環境が法と行政の対象になった。1980年、カーソンには死後に大統領自由勲章が贈られた。本は今も版を重ね、世界の多くの言葉で読まれている。春になっても鳥が鳴かない町は、彼女の本の中にしか存在しない。それはおそらく、彼女の警告が聞き入れられたからでもある。