バグダードの知恵の館

概要
ギリシアやインドの書物がアラビア語に訳された。この蓄積が後にヨーロッパへ還る。
場所
33.32°N 44.37°E · イラク
関わった人(2)
ハールーン・アッラシードAD763年頃–AD809年 · 前代の君主フワーリズミーAD780年頃–AD850年頃 · 働いた本文
762年、アッバース朝の第2代カリフ、マンスールは、チグリス川のほとりに円形の都を築いた(バグダードの建設)。東西の交易路が交わり、ペルシアの官僚、ネストリウス派のキリスト教徒の医者、インドから来た天文学者が集まる町になった。外の知識を自分たちの言葉に移す仕事は、この都の最初の世代からもう始まっている。
その中心に置かれたのが「バイト・アル=ヒクマ」、知恵の館と呼ばれる施設だった。ハールーン・アッラシードの時代に宮廷の書庫として形をとり、その子のマームーン(在位813〜833年)のもとで大きく育ったとされる。書物を集めて写す図書館であり、翻訳の工房であり、学者が集まって議論し観測する場でもあった。
紙が、この事業を支えた。中央アジアで製紙の技術を手に入れたムスリム世界では(中国人の捕虜が伝えたという話がタラス河畔の戦いと結びつけて語られるが、これは後の伝承の色が濃い)、8世紀の終わりにはバグダードに紙の工房があった。羊皮紙やパピルスより安く、大量の写本が作れるようになる。
訳されたのは、ギリシアの哲学と医学と数学、インドの天文学と算術、ペルシアの文学と行政の書だった。アリストテレス、ガレノス、ユークリッド、そしてプトレマイオスの天文書。この天文書がアラビア語で「アル=マジスティー(最も偉大なもの)」と呼ばれ、それがのちにラテン語で『アルマゲスト』の名になった。インドからは数の書き方と計算法、天文表が入った。ブラーマグプタのゼロの系統の知識が、ここでアラビア語になっている。

ネストリウス派のキリスト教徒フナイン・イブン・イスハークは、この時代を代表する訳者だった。弟子たちとともにガレノスの医書を百点あまり訳し、訳す前に同じ本の写本を何冊も集めて読み比べ、正しい本文を作ってから訳したと自分で書いている。カリフが訳者に、訳した本と同じ重さの金を払ったという話も、彼について伝わる。誇張だろうが、国家が惜しまず資金を出したことは確かになる。ユダヤ教徒、ハッラーンの星辰崇拝の民サービア教徒も、この仕事に加わった。
訳しただけではない。マームーンは、プトレマイオスの数値を自分たちで確かめさせた。バグダードとダマスクスに観測所を設けて天体を測り直し、シリアの平原で緯度1度ぶんの距離を実測して、地球の大きさを求めている。フワーリズミーはここで働き、インドの数字を使った計算法と、方程式を解く方法をまとめた(フワーリズミーの代数)。代数(アルジェブラ)の語は、その本の題から来ている。

マームーンが夢でアリストテレスに会い、それから翻訳に打ち込んだという話が、10世紀の書誌学者の本に載っている。翻訳の動機を説明するために後から語られた話だろう。実際には、宮廷の権威づけ、ペルシア以来の官僚の教養、医学や暦の実用、そして異教徒やほかの宗派との論争に負けないための論理学の必要が重なっていた。
この施設がどれほど大きな組織だったのかは、実は議論がある。近年の研究では、知恵の館は主に宮廷の書庫で、翻訳運動そのものはもっと広く、多くの有力者が私費で訳者を抱えていたと考える見方が強い。「アラビアのアカデミー」という像は、後世の理想化を含んでいるかもしれない。
1258年、モンゴル軍がバグダードを落とした(バグダードの陥落)。書物がチグリス川に投げ込まれ、インクで川が黒くなったと伝わる。ただ、そのころ知恵の館が施設としてまだ残っていたかははっきりしない。確かなのは、この都に積み上がっていた写本の多くが失われたことだ。

それでも、訳された知識は消えなかった。写本はすでにカイロにも、コルドバにも、サマルカンドにも散っていた。12世紀、キリスト教徒がスペインの都市トレドを取ると(トレドの陥落)、そこでアラビア語の科学書が次々にラテン語へ訳される。ギリシアの学問の多くは、バグダードの翻訳と注釈を通って、ヨーロッパへ還っていった。