『人間本性論』

概要
原因と結果は習慣で結びつけているだけで、必然は証明できない。28歳が書いて売れなかった本が、のちにカントを揺さぶる。
場所
55.94°N -3.19°E · イギリス・スコットランド
関わった人(1)
デイヴィッド・ヒュームAD1711年5月7日–AD1776年8月25日 · 著者本文
デイヴィッド・ヒュームは、1711年、スコットランドのエディンバラで生まれた(デイヴィッド・ヒューム)。父は小さな地所を持つ法律家で、幼いころに亡くなり、母がヒュームと兄姉を育てた。10歳を少し過ぎたころにエディンバラの大学に入り、家族は彼が法律家になることを望んだ。だがヒュームは法律の本に身が入らず、哲学と文学の本ばかり読んでいた。
18歳のころ、彼は、哲学について新しい道が開けたと感じたと、後に書いている。だがその興奮のあと、心も体も病んだ。数年にわたって気力が出ず、医師に診てもらうほどだった。立ち直った彼は、商人の店で働いてみたが合わず、1734年、フランスへ渡った。物価の安い田舎で暮らし、本を書くことに専念するためである。
滞在したのは、ロワール地方のラ・フレーシュという町だった。かつてデカルトが学んだ学院があり、ヒュームはその図書館を使うことができた。そこで3年ほどかけて書き上げたのが、『人間本性論』である。副題は、実験的な推論の方法を道徳の主題に導入する試み、とされた。アイザック・ニュートンが自然について行ったように(『プリンキピア』)、人間の心についても、観察と経験にもとづいて調べようというのである。

1739年1月、最初の2巻が名前を伏せて出版された。28歳だった。翌年には第3巻が出た。ヒュームは大きな反響を期待していた。だが本はほとんど売れず、わずかな書評も的外れなものばかりだった。晩年に書いた短い自伝で、彼はこう振り返っている。この本は、印刷機から死産で生まれた。熱狂的な人びとのあいだにさえ、ささやき声一つ起こさなかった、と。彼は匿名で自らこの本の要約を書いて出したが、それも読まれなかった。
本の中身は、それまでの哲学の土台を揺さぶるものだった。ヒュームはまず、心に浮かぶものを二つに分ける。見たり触れたり感じたりしたときの生き生きした「印象」と、その写しである「観念」である。どんな観念も、もとをたどれば何かの印象に行き着くはずだ。行き着かない観念は、中身の無い言葉にすぎない。ジョン・ロックから受け継いだ経験論を、ヒュームはその行き着くところまで押し進めた。

その目で、原因と結果の結びつきを調べる。一つの玉が転がって別の玉に当たり、その玉が動き出す。私たちはそれを見て、前の玉が後の玉を動かしたと考える。だが実際に見えているのは、一つのことが起き、続いて別のことが起きる、ということだけである。両者を結びつける「力」や「必然」そのものは、どこにも見えない。同じ組み合わせを何度も見るうちに、一方を見れば他方を思い浮かべるよう、心に習慣ができる。必然と思っているものの正体は、その習慣だ、とヒュームは言った。
ここから、厄介な問いが出てくる。これまで毎朝太陽が昇ったからといって、明日も昇ると言える理由はあるのか。過去の経験から未来を推し量ることを、理屈で正当化することはできない。それでも私たちは、そう信じずには生きていけない。私たちを動かしているのは、理性ではなく習慣である。

自分というものについても、ヒュームは同じ問いを向けた。自分の内側をのぞき込んでも、見つかるのは、暑さや寒さ、光や影、愛や憎しみといった、そのつどの知覚だけである。それらを貫いて変わらずにある「自分」そのものは、どこにも見つからない。人間とは、次々に移り変わる知覚の束にすぎない、と。
第3巻では道徳を論じた。理性は情念の奴隷であり、またそうあるべきだ、という有名な一句がある。人を行動に駆り立てるのは理性ではなく感情であり、理性はその手段を示すだけだという。さらにヒュームは、道徳を論じる多くの本で、いつのまにか「である」から「べきである」へ話が移っていると指摘した。事実の記述から、なすべきことは導けない。この指摘は、のちに「ヒュームの法則」と呼ばれる。

本は売れなかったが、ヒュームはあきらめなかった。内容を短く分かりやすく書き直し、1748年に『人間知性研究』として、1751年に『道徳原理研究』として出した。こちらは少しずつ読まれるようになった。だが無神論者だという評判がつきまとい、エディンバラとグラスゴーの大学で哲学の教授の席に応募したときには、どちらも反対にあって落とされた。
生活の糧と名声をもたらしたのは、図書館の管理人として働きながら書いた『イングランド史』だった。全6巻のこの本は広く売れ、ヒュームは当時、哲学者よりも歴史家として知られた。パリでは大使館の書記官を務め、社交界で歓迎された。ジャン=ジャック・ルソーをイギリスに招いて世話をしたが、のちに激しく仲違いしている。年下の友人アダム・スミスとは生涯親しく、『国富論』の出版を見届けた年に、エディンバラで穏やかに死んだ(『国富論』)。

ヒュームの問いを最も深く受け止めたのは、ドイツの哲学者イマヌエル・カントだった。カントは、ヒュームを思い出したことが、自分を独断のまどろみから覚ましたと書いている。ただし、カントが読んだのは主に『人間知性研究』のほうで、『人間本性論』がドイツ語に訳されたのは、もっと後のことである。原因と結果の必然はどこから来るのか。カントはその答えを探して『純粋理性批判』を書いた(『純粋理性批判』)。売れなかった28歳の本の問いは、こうして近代の哲学の中心に据えられた。