人物

ソクラテス

Socrates
BC470年頃 – BC399年(享年71・推定)
アテナイ重要度 5

概要

問答によって人に無知を自覚させた哲学者。国家の神を認めず若者を惑わしたとして死刑になった。

所属

アテナイ

関わったできごと(3)

アルギヌサイの海戦BC406年 · 反対した三十人政権BC404年 · 元弟子ソクラテスの死BC399年 · 当人

本文

紀元前470年頃、アテナイに生まれた。父ソフロニスコスは石工、母パイナレテは産婆だったと伝えられる。のちにソクラテスは、自分の仕事を母の仕事になぞらえた。自分は知恵を生むことはできないが、相手の中にある考えを産み出す手助けはできる、というのである。問答で相手の考えを引き出すこのやり方は「産婆術」と呼ばれる。

ソクラテスの胸像(エフェソス博物館)
ソクラテスの胸像(エフェソス博物館)Wikimedia Commons Pvasiliadis · Public domain

生まれたのは、アテナイがペルシア戦争に勝ち、エーゲ海の覇者として最も輝いていた時代だった。青年期のソクラテスは、ペリクレスのもとで民主政が栄え、パルテノン神殿が建てられていく町を見て育った。

自分では一行も書き残さなかった。今に伝わるソクラテスは、弟子のプラトンとクセノフォンが書いたもの、そして喜劇作家アリストファネスが舞台で笑いものにした姿である。プラトンの描くソクラテスは鋭い哲学者で、クセノフォンの描くソクラテスは常識的な道徳の教師に近く、二人の像はかなり違う。プラトンの対話篇では、どこまでが本人の考えで、どこからがプラトンの考えなのか、見分けるのが難しい。この難しさは「ソクラテス問題」と呼ばれている。

Al-Mubashshir ibn Fatik によるソクラテスに関する叙述
Al-Mubashshir ibn Fatik によるソクラテスに関する叙述Wikimedia Commons Al-Mubashshir ibn Fatik · Public domain

見た目は風変わりだった。低い鼻が上を向き、目は飛び出し、腹は出ていたと書かれている。一年じゅう同じ粗末な上着を着て、冬でも裸足で歩いた。金を取って教える職業の教師たち(ソフィスト)とは違い、ソクラテスは誰からも報酬を受け取らなかった。

市民として、兵士の務めも果たした。ペロポネソス戦争では重装歩兵として何度も戦場に出ている。プラトンの『饗宴』では、若い政治家アルキビアデスが、北方のポティダイアの戦いで負傷した自分をソクラテスが救ったこと、デリオンの敗走のなかでもソクラテスが悠然と歩いて退いたことを語っている。冬の陣中で、薄着のまま氷の上を裸足で歩いたとも、考え事を始めて一昼夜立ち尽くしたとも言われる。

オランダ黄金時代の画家レイヤー・ファン・ブロンメンダールによる「ソクラテス、彼の二人の妻とアルキビアデス」
オランダ黄金時代の画家レイヤー・ファン・ブロンメンダールによる「ソクラテス、彼の二人の妻とアルキビアデス」Wikimedia Commons Reyer van Blommendael · Public domain

ソクラテスが一生をかけてやったことは、問うことだった。広場や運動場で、政治家や詩人や職人をつかまえて、勇気とは何か、正義とは何か、美とは何か、と尋ねる。相手が答えると、その答えから出てくる結論を一つずつ確かめ、最初の定義と矛盾することを示す。最後に相手は、自分が分かっていると思っていたことを、実は分かっていなかったと気づかされる。

そのきっかけを、ソクラテスは裁判の弁明でこう語っている。友人がデルフォイの神託に、ソクラテスより賢い者はいるかと尋ねたところ、誰もいないという答えが返ってきた。自分が賢いとは思っていなかったソクラテスは、神の言葉の意味を確かめようとして、賢いと評判の人々を訪ね歩いた。分かった結論はこうだった。彼らは知らないのに知っていると思っている。自分は知らないということを知っている。その分だけ、自分のほうが少し賢いのだ、と。

ソクラテスの胸像(ルーヴル美術館)
ソクラテスの胸像(ルーヴル美術館)Wikimedia Commons Copy of Lysippos (?) · Public domain

このやり方は、若者たちには胸のすく見ものだった。裕福な家の青年たちがソクラテスの後をついて回り、大人たちを問い詰めるまねをした。だが、人前で無知をあらわにされた人々は、ソクラテスを恨んだ。紀元前423年に上演されたアリストファネスの喜劇『雲』では、ソクラテスは空中のかごに乗ってでたらめな理屈を教える、怪しげな学者として笑われている。

ソクラテスは、自分の内に「ダイモニオン」と呼ぶ神霊の声を聞くと語った。その声は何かをせよとは言わず、してはならないことをするときにだけ止めるのだという。政治の表舞台に出なかったのも、この声が止めたからだと説明している。それでも、正しくないと考えたことには、命がけで逆らった。紀元前406年、海戦の後に遭難者を救わなかった将軍たちを一括して裁こうとする民会の動きに、その日の議長団の一人として、ただ一人反対した。紀元前404年、戦争に敗れたアテナイで「三十人」と呼ばれる寡頭政権が恐怖政治を敷いたとき、無実の市民を連行してくるよう命じられたが、従わずに家に帰った。政権がまもなく倒れなければ、殺されていたかもしれない。

ポテイダイアの戦い(紀元前432年)。アルキビアデスを救うソクラテス(18世紀の銅版画)
ポテイダイアの戦い(紀元前432年)。アルキビアデスを救うソクラテス(18世紀の銅版画)Wikimedia Commons (Athenians against Corinthians, 431 BC; Socrates saves Alcibiades). Engraving (sketch) by Wilhelm Müller after the drawi · Public domain

ところが、その「三十人」の中心人物クリティアスはソクラテスと親しかった人物で、アテナイを裏切ってスパルタについたアルキビアデスも、ソクラテスのそばにいた若者だった。民主政が回復したアテナイでは、ソクラテスこそ危険な若者たちを育てた人物だと見る市民が少なくなかった。

紀元前399年、ソクラテスは訴えられた。告発の理由は、国家の認める神々を認めず、新しい神霊を持ち込み、若者を堕落させたというものだった。くじで選ばれた500人ほどの市民が裁判員を務め、ソクラテスは自ら弁明に立った。プラトンの『ソクラテスの弁明』によれば、ソクラテスは許しを乞うことも、家族を連れてきて同情を誘うこともせず、自分の生き方を堂々と説明した。吟味のない生は人間にとって生きるに値しない、という言葉はこの弁明に出てくる。

三十人政権に関わる図版:Lysander-Sparta
三十人政権Wikimedia Commons Published by Guillaume Rouille(1518?-1589) · Public domain

票決は、有罪がわずかに上回った。続いて刑の重さを決める段階で、告発側は死刑を求めた。慣例では、被告は軽い刑を申し出て裁判員の同情を買う。ところがソクラテスは、自分は国のためになることをしてきたのだから、国の功労者と同じように迎賓館で食事を与えられるのがふさわしい、と言い放った。友人たちの勧めでわずかな罰金を申し出たものの、裁判員の多くは怒り、死刑の票は有罪の票よりも多かったと伝えられる。

刑の執行は、聖なる船がデロス島の祭りから戻るまで延ばされ、ソクラテスは約1か月を獄中で過ごした。友人のクリトンは看守を買収して逃がす手はずを整えたが、ソクラテスは断った。これまで国の法のもとで生きてきた者が、都合が悪くなったときだけ法を破るのは正しくない、というのが理由だった。最期の日、ソクラテスは弟子たちと魂の不死について語り合い、渡された毒にんじんの杯を落ち着いて飲み干した(ソクラテスの死)。70歳ほどだった。プラトンによれば、最後の言葉は、医術の神アスクレピオスに鶏を一羽供える借りがある、忘れずに返してくれ、というものだった。

ソクラテスの死に関わる図版:David - The Death of Socrates
ソクラテスの死Wikimedia Commons Jacques-Louis David · Public domain

裁判の弁明の結びに、ソクラテスは、もう去るべき時が来た、私は死ぬために、あなた方は生きるために、どちらがより良いものに向かうのかは神のほかに誰にも分からない、と語ったとプラトンは書いている。

師の死は、28歳ほどだったプラトンの人生を変えた。プラトンは政治の道をあきらめ、師を主人公にした対話篇を書き続け、のちにアテナイの郊外に学園を開いた(プラトンのアカデメイア)。その学園からアリストテレスが出る。西洋の哲学の大きな流れは、一行も書かなかった一人の男の死から始まったとも言える。

動画(2)

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