人物

ニザームルムルク

Nizam al-Mulk
AD1018年 – AD1092年(享年74・推定)
セルジューク朝重要度 4

概要

二代のスルタンに30年仕えた宰相。イクター制で軍を養い、マドラサを各地に建てた。統治論『政治の書』を残し、イスマーイール派の刺客に殺された。

所属

セルジューク朝

関わったできごと(1)

ニザーミーヤ学院の創設AD1065年 · 設立

本文

本名はアブー・アリー・ハサン。ニザームルムルクは「王国の秩序」を意味する称号である。1018年、イラン東北部ホラーサーン地方の古都トゥースの近くで、地主の家に生まれた。父はこの地方を治めていたガズナ朝の役人で、徴税の仕事をしていた。ペルシア語とアラビア語、イスラーム法学と書記の技を若いうちに身につけた。

ニザームルムルクの暗殺(『集史』)
ニザームルムルクの暗殺(『集史』)Wikimedia Commons unknown painter · Public domain

彼が育ったころ、ホラーサーンの支配者が入れ替わった。中央アジアの草原から、トルコ系の遊牧民セルジュークの一族が南下してきたのである。1040年、セルジュークの軍勢はマフムード・ガズナウィーの後継者が率いるガズナ朝の大軍を破り、ホラーサーンを手に入れた。ニザームルムルクはしばらくガズナ朝の側で仕えたのち、セルジュークの側に移った。遊牧の戦士たちは戦には強いが、町や村から税を集め、帳簿をつけ、手紙を書く者を持たなかった。ペルシアの書記の伝統を受け継ぐ彼のような人材が、新しい支配者には欠かせなかった。

ホラーサーンを治めていた王子アルプ・アルスラーンに仕え、その宰相になった。1063年、セルジューク朝の初代スルタン、トゥグリル・ベグが死ぬと、後継をめぐる争いを経てアルプ・アルスラーンが即位し、ニザームルムルクは帝国全体の宰相となった。前の宰相は捕らえられ、のちに処刑されている。

アルプ・アルスラーンの治世に、セルジューク朝は西へ大きく広がった。1071年、マンジケルトの戦いでビザンツ皇帝を捕らえ、アナトリアへの道が開かれた。翌1072年、アルプ・アルスラーンは中央アジアへの遠征中に捕虜に刺されて死んだ。後を継いだ息子のマリク・シャーはまだ17歳ほどだった。ニザームルムルクは即位に反対する一族の反乱を抑え、若いスルタンを支えた。マリク・シャーは彼に「アタベク」、父親代わりという称号を与えたと伝えられる。それから20年、帝国の政治は事実上、この宰相の手にあった。

マンジケルトの戦いに関わる図版:Battle of Manzikert (1071)
マンジケルトの戦いWikimedia Commons O.Mustafin · Public domain

彼が整えたしくみの一つが、イクターである。軍人に給料を現金で払う代わりに、ある土地から税を取る権利を与え、その税で自分と部下の兵を養わせる。イクターそのものは前の時代からあったが、彼はこれを帝国の軍を支える仕組みとして大規模に用いた。国庫に金がなくても大軍を維持でき、遊牧の戦士たちを土地に結びつけることもできた。ただし彼は、イクターを持つ者が土地と農民を私物化しないよう、徴税権は土地そのものではないこと、農民を虐げれば取り上げることを繰り返し説いている。

もう一つが、マドラサ(学院)である。1067年、アッバース朝のカリフがいるバグダードに、彼の名を冠したニザーミーヤ学院が開かれた(ニザーミーヤ学院の創設)。続いてニーシャープール、イスファハーン、バスラ、ヘラートなど各地に同名の学院が建てられた。寄進された財産の収入で教授に給料を払い、学生に住まいと奨学金を与える。教えたのはスンナ派のシャーフィイー法学派の法学と、アシュアリー派の神学だった。

全盛期(1092年ころ)のセルジューク朝支配地域
全盛期(1092年ころ)のセルジューク朝支配地域Wikimedia Commons MapMaster 2008 first version, Nihil scimus 2025 update. · Public domain

学院には狙いがあった。当時、エジプトのファーティマ朝はシーア派の一派イスマーイール派を掲げ、各地に宣教者を送り込んでいた。ニザーミーヤは、スンナ派の正統な学問を修めた法学者や官僚を大量に育て、その人々が裁判官や役人として帝国中に散ることで、思想の面から国を固めようとするものだった。1091年には若いガザーリーがバグダードのニザーミーヤの教授に迎えられている。

晩年、マリク・シャーの求めに応じて、統治論『政治の書』を書いた。王が何をすべきかを、ペルシアの古い王たちや歴代のカリフの逸話を並べて説く書物である。王は定期的に民の訴えを自ら聞け。各地に密偵と使者を置き、役人の不正を知れ。役人を長く同じ地位に置くな。とくにイスマーイール派を危険な異端として激しく警戒した。

20年あまりの間に、彼の一族は帝国の要職を占めるようになった。息子たちは各地の長官となり、宰相の家は一つの勢力になった。成長したマリク・シャーは、次第にこの老宰相を煙たく思うようになった。後継者をめぐって、ニザームルムルクは年長の王子を推し、王妃テルケン・ハトゥンは自分の幼い息子を推した。王妃と結んだ廷臣たちが、宰相の追い落としを図った。

1092年10月、マリク・シャーとともにイスファハーンからバグダードへ向かう途中、イラン西部のナハーヴァンドの近くで、訴えを持ってきた修行者の姿の男に短剣で刺され、死んだ。74歳ごろだった。犯人は、ハサン・サッバーフが率いるイスマーイール派の刺客だったとされ、これは彼らによる最初の大きな暗殺として知られる(アラムートのニザール派)。ただし、宰相を除きたかったマリク・シャー自身や王妃の側が関わっていたのではないかという疑いも、当時からあった。

その1か月あまり後、マリク・シャーも狩りの後に急死した。37歳ほどだった。後継をめぐって王子たちが争い、セルジューク朝の統一は崩れていった。

後世、ニザームルムルクは、遊牧の征服者とペルシアの官僚の伝統を結びつけた名宰相として記憶された。少年時代に彼と詩人ウマル・ハイヤーム、ハサン・サッバーフの三人が同じ師に学び、出世した者が他の二人を助けると誓い合った、という有名な話があるが、三人の年齢が合わず、後世の作り話とされる。

動画(1)

三浦徹「イスラーム地域における知の獲得と利用:ウラマーとマドラサと図書館」―第2回U-PARLシンポジウム「むすび、ひらくアジア2:アジアの〈共有〉・知の〈共有〉」UTokyo Channelウラマー・マドラサ・図書館から、イスラーム地域の知の伝わり方を語る東京大学の講演
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