無名戦士の墓
概要
第一次世界大戦のイギリスの戦死者のうち、何十万人かは、遺体が見つからないか、誰か分からなかった。従軍牧師デイヴィッド・レイルトンは、前線で「名も知れぬイギリス兵」と書かれた十字架を見て、その一人を国の真ん中に葬ることを思いつく。1920年11月、いくつかの戦場から掘り出された遺体が並べられ、准将が、どこの遺体か知らされないまま一つを選んだ。誰であるかを、誰も知らない。11月11日、その棺はウェストミンスター寺院に納められた。同じ日、フランスも一人を凱旋門へ運んだ(その下に葬ったのは翌年1月)。遺族は、そこに自分の息子がいるかもしれないと思うことができた。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
第一次世界大戦では、多くの兵士が遺体を残さずに死んだ。死の多くは銃弾ではなく砲弾によるもので、体がほとんど残らないことがあった。戦線が行き来するたびに、いったん埋めた場所がまた砲撃で掘り返された。泥の中で認識票が外れれば、もう誰か分からない。イギリスとその帝国だけで、遺体が見つからないか、見つかっても身元の分からない死者は数十万にのぼった。戦場の墓地には、名前の代わりに「神のみぞ知る」と刻まれた墓標が並んだ。この言葉を選んだのは作家ラドヤード・キプリングで、彼自身も一人息子をこの戦争で失い、その遺体は長く見つからなかった。
イギリス政府は、戦死者の遺体を家族のもとへ返さないという方針を取った。数が多すぎた。それに、返せる家と返せない家が出れば、不公平になる。金のある家だけが息子を取り戻すことは避けたかった。戦死者は倒れた土地に、身分を問わず同じ形の墓で葬られることになった。だが、そうなると残された家族には行く場所が無い。墓は海の向こうにあり、遺体の無い者については、そもそもどこにいるのかさえ分からない。

思いついたのは、従軍牧師デイヴィッド・レイルトンだった。1916年、フランス北部の前線にいた彼は、ある民家の裏庭で粗末な木の十字架を見た。鉛筆でこう書かれていた。「名も知れぬイギリス兵」。その光景が彼の心に残った。戦後の1920年、レイルトンはウェストミンスター寺院の主席司祭ハーバート・ライルに手紙を書き、身元の分からない兵士を一人選んで、国の真ん中に葬ってはどうかと提案した。首相ロイド・ジョージが後押しした。国王ジョージ5世は初め、ふさがりかけた傷を開くことになるのではないかと乗り気ではなかったと伝えられるが、最後には賛成した。
大事なのは、それが誰でもないことだった。名前が分かってしまえば、意味が無くなる。1920年11月、アラス、ソンム、イーペル、エーヌなど、いくつかの戦場から、身元の分からない遺体が掘り出された。何か所から運ばれたかについては4か所から6か所まで記録に幅がある。遺体はフランス北部の町サン=ポルの礼拝堂に運ばれ、同じ形の袋に覆われて並べられた。その夜、准将L・J・ワイアットが、どの遺体がどこから来たのかを知らされないまま礼拝堂に入り、一つに手を置いた。目隠しをして選んだと語られることもあるが、ワイアット自身はただ手を置いたと書き残している。残りの遺体は、その場で丁重に埋め直された。選んだ者も、それが誰かを知らない。知らないことそのものが、手続きの中身だった。

棺はブーローニュの港から駆逐艦に載せられて海を渡り、ドーヴァーから特別列車でロンドンへ運ばれた。沿線の駅や線路わきには、夜にもかかわらず人々が立って見送った。1920年11月11日、休戦から2年目の日、棺は砲車に載せられてロンドンの街を進んだ。ホワイトホールでは、国王が戦没者の記念碑セノタフの除幕を行い、それから棺はウェストミンスター寺院に入った。墓には、フランスの戦場から運んだ土が入れられた。のちに置かれた黒い大理石の墓石は、寺院の床の中でただ一つ、人が上を歩かないよう避けて通る墓になっている。
同じ日、パリでも身元の分からない兵士の棺が凱旋門に運ばれた。フランスの無名戦士は翌1921年1月、凱旋門の下に正式に埋葬され、1923年からはその上で消えない炎が灯されている。二つの国が、ほぼ同じ時に同じことを考えていた。

最初の1週間で、寺院の墓を訪れた人は100万人を超えたといわれる。その多くは、遺体の戻らなかった家の者たちだった。母や妻や父たちは、そこに自分の息子や夫がいるかもしれない、と思うことができた。
この形はすぐに各国に広がった。アメリカは1921年にアーリントン国立墓地に、イタリアも同じ年にローマに、無名戦士の墓を設けた。ベルギー、ポルトガル、そのほか多くの国が続いた。なぜこれほど受け入れられたのか。遺体の戻らない家が、どの国にも大量にあったからである。名前が無いことは欠落ではなく、誰でもありうるという余地になった。同時に、国のほうもこの墓を必要とした。数百万の死を一つの墓にまとめ、国の儀式の中心に置くことができる。弔うことと称えることが、そこで混ざり合う。のちに、この墓の前での儀式が戦争を美しく語りすぎるという批判も生まれた。

アメリカの南北戦争では、遺体に防腐の処置をして、顔を家に返すことに金と技術が注がれた(遺体を、家に返す)。第一次世界大戦では、それができなかった。だから、返すかわりに「誰でもない一人」を作った。遺体の扱い方は技術であると同時に、残された者にどこへ行けばよいかを教える仕掛けでもある。墓を必要としているのは、死者ではなく、生きている側なのである。