概要
白河藩主松平定信が老中首座になって、田沼の政策を戻した。棄捐令で旗本の借金を帳消し、囲米、旧里帰農令、寛政異学の禁(朱子学以外を昌平坂で教えない)、山東京伝と蔦屋重三郎の処罰、石川島の人足寄場。「白河の清きに魚のすみかねて、もとの濁りの田沼こひしき」。6年で辞めた。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
関わった人(1)
松平定信AD1759年1月15日–AD1829年6月14日 · 老中首座本文
松平定信は吉宗の孫で、11代家斉の後見として、1787年6月、老中首座になった。28歳。前月、天明の打ちこわし。江戸の米屋が3日襲われた。
田沼を消した。株仲間の運上金を減らし、印旛沼の工事を止め、蝦夷地の計画を止めた。
倹約。幕府の支出を削り、大奥を削った。棄捐令(1789年):札差(旗本の給料の米を換金する商人)への旗本・御家人の借金のうち、6年以上前のものを帳消し、それ以下は低利に。旗本は喜び、札差は貸さなくなって、旗本はもっと困った。囲米:大名に1万石につき50石の米を蓄えさせた。七分積金:江戸の町の経費の節約分の7割を積み立てて、飢饉と火事の備えに。これは明治まで170万両になって、東京の初期の財源になった。旧里帰農令:江戸に流れた農民に金を渡して村に帰らせた。帰らなかった。人足寄場:石川島に無宿人を収容して職を教えた。長谷川平蔵の献策。
寛政異学の禁(1790年):湯島聖堂で朱子学以外を教えるな。荻生徂徠の古文辞学、伊藤仁斎の古義学が官学から排除された。柴野栗山、尾藤二洲、岡田寒泉の「寛政の三博士」。出版統制:山東京伝の洒落本が手鎖50日、版元の蔦屋重三郎が財産の半分没収。林子平の『海国兵談』が発禁、蟄居。
「白河の清きに魚のすみかねて、もとの濁りの田沼こひしき」。
1793年、尊号一件。光格天皇が実父に太上天皇の号を贈りたいと言い、定信が拒んだ。家斉も実父に大御所の号を望んでいて、定信が拒んだ。家斉が定信を嫌い、7月、辞めた。6年。
その後の家斉の50年は、定信が削った大奥が最大になった。