できごと

寛政の改革

Kansei Reforms
AD1787年(天明7年)
重要度 4
寛政の改革に関わる図版:Emperor Kōkaku
Emperor Kōkaku Wikimedia Commons Toyooka Harusuke · Public domain

概要

白河藩主松平定信が老中首座になって、田沼の政策を戻した。棄捐令で旗本の借金を帳消し、囲米、旧里帰農令、寛政異学の禁(朱子学以外を昌平坂で教えない)、山東京伝と蔦屋重三郎の処罰、石川島の人足寄場。「白河の清きに魚のすみかねて、もとの濁りの田沼こひしき」。6年で辞めた。

場所

江戸
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)

関わった人(1)

松平定信AD1759年1月15日–AD1829年6月14日 · 老中首座

本文

1787年(天明7年)6月、白河藩主の松平定信が、三十歳になるかならないかで老中の首座に就いた。前の月、江戸では米の値上がりに怒った人びとが米屋を次々に打ちこわし、町は数日のあいだ無法の状態になっていた。天明の飢饉で東北を中心に多くの人が飢え死にし、浅間山の噴火の灰が田を覆った。幕府の権威は、田沼時代の終わりとともに地に落ちていた。

定信は八代将軍徳川吉宗の孫にあたる。御三卿の田安家に生まれ、将軍の跡継ぎになる可能性もあったが、若くして白河松平家の養子に出された。これを田沼の差し金と見て恨んでいたとも伝えられる。白河藩では飢饉の際に他領から米を買い入れ、餓死者を出さなかったと評判になった。その手腕を買われ、少年の新将軍家斉のもとで政治を任されたのである。

松平定信
松平定信Wikimedia Commons 松平定信(自画像) · Public domain

定信が手本にしたのは、祖父の享保の改革だった。商業から税を取り、貨幣を動かして財政を立て直そうとした田沼意次のやり方を改め、倹約と農村の立て直しを柱に据える。大名には一万石につき五十石の米を蓄えさせ(囲米)、各地に社倉や義倉を作らせた。江戸の町には、町の運営費を節約させてその七割を積み立てさせ、飢饉や災害のときの救いに充てた(七分積金)。飢饉への備えを、その場しのぎの施しではなく、平時からの積み立てで用意しておこうとした点に、定信の政治の特徴がある。この積立は幕末まで続き、明治になって東京の公共事業の元手にも使われた。

1789年には棄捐令を出し、旗本や御家人が札差(蔵米を担保に金を貸す商人)から借りた金のうち、古いものを帳消しにさせた。武士は一息ついたが、札差は貸し渋るようになり、かえって武士の金回りは悪くなったともいわれる。1790年には旧里帰農令で、江戸に流れ込んだ農民に資金を与えて村へ帰るよう促した。同じ年、無宿人に職業を身につけさせる施設として、石川島に人足寄場を設けている。発案したのは、火付盗賊改の長谷川平蔵だった。

1817年、退位後に仙洞御所へ向かう光格天皇
1817年、退位後に仙洞御所へ向かう光格天皇Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

思想と出版も引き締めた。1790年、幕府の学問所で朱子学以外の学問を教えることを禁じた(寛政異学の禁)。幕府の学問所は、のちに昌平坂学問所として官立の学校になる。柴野栗山や尾藤二洲ら朱子学者が登用され、「寛政の三博士」と呼ばれた。異学の禁は幕府の学問所に限った命令だったが、諸藩の学校もこれにならう所が多く、朱子学は武士の正統の学問としての地位を固めた。出版では、遊里を描いた洒落本の山東京伝が手鎖五十日の刑を受け、版元の蔦屋重三郎は財産の半分を取り上げられた。武士を風刺した黄表紙の作者で、駿河小島藩の藩士でもあった恋川春町は呼び出しを受け、出頭しないまま1789年に死んでいる。海の守りの必要を説いた林子平の『海国兵談』も、人心を惑わすとして版木を没収された。同じ1792年の秋、ロシアの使節ラクスマンが根室に来航し、定信は自ら海岸の防備の検分に乗り出すことになる。

改革は厳しすぎて、人びとの心は離れていった。「白河の清きに魚のすみかねて、もとの濁りの田沼こひしき」という狂歌が詠まれ、「世の中に蚊ほどうるさきものはなし、ぶんぶといふて夜も寝られず」と、文武の奨励を蚊の羽音にかけて皮肉る歌も出回った。朝廷が光格天皇の父に太上天皇の称号を贈ろうとした件(尊号一件)を定信が拒んだことで、同じ問題を抱えていた将軍家斉との仲も悪くなる。1793年、定信は老中を退いた。在任は六年余りだった。

それでも、定信の路線は「寛政の遺老」と呼ばれる老中たちに引き継がれ、しばらく続いた。倹約と農村の立て直しで財政を締める寛政の改革は、のちの天保の改革とともに、江戸の三大改革の一つに数えられる。退いた定信は白河藩の政治に戻り、自伝『宇下人言』や随筆『花月草紙』を書いて、1829年に没した。

動画(1)

117 寛政の改革 日本史ストーリーノート第12話Historia Mundi ムンディ先生高校の日本史を200講で通す講義の第117講「寛政の改革」

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