できごと

エリキシル・スルファニルアミド事件

Elixir sulfanilamide
AD1937年10月
重要度 4
大英帝国カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国デンマークメキシコDominion of NewfoundlandニカラグアホンジュラスキューバグアテマラAD1937年10月ワシントンD.C.
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1937年10月の版図を描いています(11勢力)。

概要

効く薬だった。子どもが飲みやすいよう甘い液にしたい。テネシーの製薬会社の主任化学者は、溶かす液にジエチレングリコールを選んだ。味と香りは試したが、毒性は試していない。当時の法は、それを求めていなかった。腎不全で105人が死に、その多くが子どもだった。連邦の査察官が処方箋をたどって回収した。翌1938年、連邦食品医薬品化粧品法が成立し、販売の前に安全性を示すことが初めて義務になった。

場所

ワシントンD.C.
38.91°N -77.04°E · アメリカ合衆国

本文

1930年代の半ば、医学に新しい武器が加わった。1932年、ドイツのバイエル社の研究所で、ゲルハルト・ドーマクが、プロントジルという赤い色素に、細菌の感染を抑える力があることを見つけた。1935年にはパリのパスツール研究所の研究者たちが、体の中でプロントジルが分解されてできるスルファニルアミドという物質こそが効いている本体だと突き止めた。この物質は1908年にすでに合成されていて、特許は切れていた。誰でも作って売ることができたのである。ペニシリンの発見は1928年だが、ペニシリンが薬として出回るのは1940年代で、それまでの数年間、スルファ剤は細菌に効くほとんど唯一の薬だった。

1937年のアメリカで、スルファニルアミドは錠剤や粉薬として広く使われていた。連鎖球菌による喉や血液の感染症、淋病。それまで命を奪うこともあった病気が、薬で治るようになった。そこへ南部の医師や販売員から、飲み薬の液体にしてほしいという声が上がった。子どもは錠剤をうまく飲めない。そして、液体の薬はよく売れる。

これに応えたのが、テネシー州ブリストルのS・E・マッセンギル社だった。主任化学者のハロルド・ワトキンスは、まず溶かす液を探した。スルファニルアミドは水にもアルコールにもほとんど溶けない。いろいろ試すうちに、ジエチレングリコールにはよく溶けることが分かった。

しかもこの液は甘い。ワトキンスはこれにラズベリーの香料と色を加え、「エリキシル・スルファニルアミド」と名づけた。エリキシルとは、本来アルコールを含む飲み薬を指す言葉で、この製品にアルコールは入っていなかった。

会社は、できあがった薬の見た目と味と香りを確かめた。確かめたのはそれだけである。動物に飲ませて毒性を調べることはしなかった。当時の法律は、それを求めていなかった。1906年の純正食品薬事法が禁じていたのは、成分を偽る表示や、混ぜ物で質を落とすことで、薬が安全かどうかを売る前に確かめる義務は、どこにも書かれていなかった。

ジエチレングリコールは、いまでは不凍液などに使われる工業用の液体として知られている。体に入ると分解されて腎臓を傷め、尿が出なくなって死に至る。その毒性を示す研究は1930年代の前半にすでに出ていたが、広くは知られていなかった。1937年9月、この「薬」はおよそ240ガロン(900リットルあまり)が作られ、瓶に詰められて全米の医師や薬局へ送られた。

10月の初め、オクラホマ州タルサの医師たちが、同じ症状で死んでいく患者が続いていることに気づいた。どの患者も、同じ薬を飲んでいた。医師たちはアメリカ医師会に知らせ、医師会は製品を取り寄せて分析し、溶かす液がジエチレングリコールであることを突き止めた。症状は、飲んでから数日後に現れた。

尿が出なくなり、激しい腹痛と吐き気、けいれんに襲われ、腎臓が働かなくなる。当時は人工の腎臓も無く、手の施しようがなかった。患者は一週間から十日ほど苦しんだ末に死んでいった。幼い子を失ったタルサの母親は、ルーズヴェルト大統領に手紙を書いた。子どもが痛みに叫ぶ声が耳から離れない、二度とこんなことが起きないようにしてほしい、という手紙である。

連邦の食品医薬品局(FDA)は、ほとんど全員の査察官と化学者を動員した。会社の出荷の記録を手に入れ、薬を受け取った医師と薬局を一軒ずつ回り、処方箋をたどって患者の名前を突き止め、家を訪ねて瓶を回収した。すでに捨てられていた瓶もあれば、棚に残っていた瓶もあった。偽名や記録の不備で行方の分からない瓶を探して、査察官は田舎道を走り回った。

作られた240ガロンのうち、およそ234ガロンが回収された。それでも、飲まれてしまった6ガロンほどで105人が死んだ。その多くは子どもだった。

ところが、会社を罪に問う法律がほとんど無かった。毒を薬として売ったこと自体を罰する規定は無い。成分の表示も、求められている範囲では嘘ではなかった。FDAが見つけた唯一の違反は、名前だった。

エリキシルはアルコールを含む液剤を意味するのに、この製品にはアルコールが入っていない。だから表示が偽りである、というのである。会社はこの違反で、2万6千ドルあまりの罰金を払った。当時の法律の下では最も重い額の一つだったが、105人の死に対する罰としては、あまりにも軽かった。

社長のサミュエル・マッセンギルは、遺憾の意を表しながらも、製造に過失は無く、法的な責任も無いと述べた。法律に照らせば、その言い分は間違っていなかった。薬を作った化学者のワトキンスは、のちに自ら命を絶っている。

この事件が、止まっていた法律を動かした。薬の規制を強める法案は1933年から議会にかかっていたが、業界の反対で5年間たなざらしになっていた。1938年6月25日、ルーズヴェルト大統領の署名で、連邦食品医薬品化粧品法が成立した。最大の変更は、新しい薬を売る前に、それが安全であることを会社が示さなければならなくなったことである。

それまでは、売られた後に政府が危険を証明しなければならなかった。それが、売る前に会社が安全を証明する仕組みに改められた。新薬の申請の制度がここから始まる。化粧品と医療機器も規制の対象になり、効き目について偽りや誤解を招く表示が禁じられ、工場への立ち入り検査も認められた。

この法律が求めたのは安全性であって、効き目ではなかった。効き目の証明が義務になるのは、1962年の改正である。その後押しになったのが、サリドマイド禍だった。アメリカでサリドマイドの被害がごく小さく済んだのは、FDAの審査官フランシス・ケルシーが、データが足りないとして承認を保留し続けたからである。1962年、ジョン・F・ケネディ大統領は彼女に勲章を贈った。

サリドマイド禍に関わる図版:Thalidomide-2D-skeletal-wavy
サリドマイド禍Wikimedia Commons Benjah-bmm27 · Public domain

1937年の教訓は、いまも行きわたっていない。ジエチレングリコールによる集団中毒は、その後も世界で繰り返されてきた。1990年のナイジェリアでは解熱剤のシロップで数十人の子どもが死に、1996年のハイチでは88人の子どもが、2006年のパナマでは百人を超える人が犠牲になった。2008年のナイジェリアでは、歯の生えはじめの子どもに飲ませる薬で80人あまりの子どもが死んだ。2022年から翌年にかけては、ガンビアやインドネシア、ウズベキスタンで、子ども用のせき止めシロップによる死者が相次ぎ、世界保健機関が警告を出した。ガンビアだけで70人近い子どもが死んでいる。

原因は、いつも似ている。甘い液として使われるグリセリンなどの代わりに、安いジエチレングリコールがまぎれこむか、汚れた原料がそのまま流通する。そして薬を作る側が、原料を自分で検査していない。売る前に安全を確かめよ、という1938年の原則は、法律の文字としては世界に広まった。しかし、それを守らせる検査の網は、いまも国によって大きな穴を残している。

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