できごと

スピノザ『エチカ』

Spinoza's Ethics
AD1677年
重要度 5
スピノザ『エチカ』に関わる図版:Spinoza Ethica
Spinoza Ethica Wikimedia Commons Public domain

概要

アムステルダムのユダヤ人共同体から23歳で破門されたレンズ磨きが、死の年に友人が遺稿を出した。幾何学の形式。定義、公理、定理、証明。「神即自然」。実体は一つ。精神と物体はその属性。自由意志はなく、必然を理解することが自由。「永遠の相の下に」。危険な本として100年隠され、ゲーテとヘーゲルとアインシュタインが読んだ。

場所

アムステルダム
52.37°N 4.90°E · オランダ

関わった人(1)

バールーフ・スピノザAD1632年11月24日–AD1677年2月21日 · 書いた

本文

17世紀のアムステルダムは、ヨーロッパでもっとも自由な都市の一つだった。世界の商品が集まる取引所(アムステルダム取引所)があり、出版が盛んで、ほかの国で迫害された人々が逃げ込んできた。スペインとポルトガルで改宗を強いられ、異端審問に追われたユダヤ人の子孫たちも、この町で信仰を取り戻し、ポルトガル系ユダヤ人の共同体を築いていた。1632年、その共同体の商人の家に、バールーフ・デ・スピノザ(バールーフ・スピノザ)は生まれた。

少年スピノザは共同体の学校でヘブライ語と聖書、ユダヤの律法を学び、優秀な生徒だったとされる。やがて父の商売を手伝いながら、ラテン語を学び、デカルト(ルネ・デカルト)の新しい哲学や自然科学の書物を読むようになった。1656年7月27日、共同体の指導者たちは、23歳の彼に「ヘレム」、すなわち破門を言い渡した。宣告文は苛烈で、昼も夜も、寝るときも起きるときも呪われよ、誰も彼と言葉を交わしてはならず、手紙を書いてはならず、同じ屋根の下にいてはならず、近づいてはならず、彼の書いたものを読んではならない、と命じていた。理由は「忌まわしい異端と恐るべき行い」とあるだけで、彼が何を言ったのかは記録されていない。後の証言によれば、神は自然と同じものであり、魂は不死ではなく、律法は神から与えられたものではない、と語っていたという。

スピノザ『エチカ』第2部「精神の本性と起源について」、1677年
スピノザ『エチカ』第2部「精神の本性と起源について」、1677年Wikimedia Commons Benedictus de Spinoza · Public domain

破門のあと、スピノザは二度と共同体に戻らなかった。名をラテン語風にベネディクトゥスと改め、家業を離れて、光学レンズを磨いて暮らしを立てた。顕微鏡や望遠鏡のためのレンズで、オランダの物理学者ホイヘンスもその腕を認めていた。アムステルダムを離れ、ライデン近くのレインスブルフ、ハーグ近郊のフォールブルフ、そして最後にハーグへと移り住み、いつも小さな借り部屋で、質素に、ひっそりと暮らした。それでも彼の周りには、教会の権威にとらわれない信仰を求める人々や、自由な思想家たちが集まり、ロンドンの王立協会の書記オルデンバーグとも手紙を交わした。1676年には、若いゴットフリート・ライプニッツがハーグの彼を訪ね、何日も語り合っている。

生前、彼が自分の名で出した本は、デカルトの哲学を幾何学の形式で解説した1冊(1663年)だけだった。1670年には、『神学政治論』を匿名で、出版地を偽って刊行した。聖書は神の言葉そのものではなく、特定の時代の人々が書いた歴史の文書として読むべきであり、預言者は特別な知恵ではなく強い想像力を持った人々で、自然の法則を破る奇跡などない、と論じた。そして国家の目的は自由であり、思想と言論の自由を認めなければ国は安定しない、と説いた。本はたちまち禁書となり、地獄で悪魔が作った本だとまで罵られた。1673年、ハイデルベルク大学から哲学教授として招かれたときも、宗教を乱さないかぎり自由に教えてよいという条件に、その自由がどこまでなのか分からない、として辞退した。

スピノザ『エチカ』第1部の原文
スピノザ『エチカ』第1部の原文Wikimedia Commons Benedictus de Spinoza · Public domain

1672年、フランスの侵攻を受けたオランダで、共和派の指導者デ・ウィット兄弟がハーグの群衆に虐殺された。スピノザは、彼らの政治を支持していた。憤った彼は、「最悪の野蛮人ども」と書いた紙を持って現場に貼りに行こうとしたが、身の危険を案じた家主が戸に鍵をかけて止めたという。

その間、彼は長い年月をかけて主著を書き進めていた。『エチカ』、正式な題は『幾何学的秩序によって証明された倫理学』である。ユークリッドの『原論』にならい、まず定義と公理を置き、そこから定理を一つずつ証明していく形式で、神、精神、感情、そして人間の自由までを論じ尽くそうとした。1675年ごろに完成し、出版の準備に入ったが、無神論の書だという噂が広がり、彼は刊行を見合わせた。

バールーフ・デ・スピノザの肖像、1665年
バールーフ・デ・スピノザの肖像、1665年Wikimedia Commons anonymous · Public domain

1677年2月21日、日曜日、スピノザはハーグの下宿で死んだ。44歳だった。長く肺を患っていた。レンズを磨くときに出るガラスの粉が病を悪くしたとも言われる。友人たちは彼の机から原稿を取り出し、アムステルダムの出版者リューウェルツのもとへ送った。その年のうちに、『エチカ』を含む遺稿集が出版された。著者の名は、頭文字の「B.D.S.」とだけ記されていた。翌年、遺稿集は禁書となった。

『エチカ』の第1部「神について」は、神とは唯一の実体であり、それ以外のものはすべて神の中にあり、神なしには存在することも考えられることもできない、と論じる。神は世界の外にいて意志によって世界を造った人格的な存在ではない。神とは自然そのもの、万物を貫く必然の秩序である。「神すなわち自然」という言葉は、この考えを要約している。神は気まぐれに選ぶことをせず、すべては必然によって起きる。第2部では、精神と身体は別々の実体ではなく、一つの実体の二つの側面にすぎない、と説く。第3部で彼は、人間の感情を、線や面や立体を扱うように扱う、と宣言する。すべてのものは、自分の存在を保とうとする努力(コナトゥス)を持つ。その力が高まる経験が喜びであり、弱まる経験が悲しみである。愛も憎しみも嫉妬も、そこから幾何学のように導かれる。

第4部は、感情に振り回されて生きる人間の「隷属」を描き、第5部は、そこからの自由の道を示す。自由とは、何でも思いのままに選べることではない。ものごとがなぜそうなるのかを、その必然の連なりの中で理解することである。感情もまた、その原因をはっきり理解したとき、受け身の情念であることをやめる。すべてを「永遠の相のもとに」見ることで、人は神への知的な愛にいたり、心の平安を得る。書物は、すべて高貴なものは、まれであると同時に困難である、という一文で終わる。

死後100年近く、「スピノザ主義者」という言葉は、無神論者と同じ意味の悪口だった。流れが変わったのは1785年、ドイツの思想家ヤコービが、劇作家レッシングは晩年にスピノザ主義者だと告白していた、と公表したときである。この論争を通じてスピノザは読み直され、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは自然の中に神を見るその思想に深く共鳴し、ヘーゲル(ヘーゲル『精神現象学』)は、哲学をするにはまずスピノザ主義者でなければならない、と述べた。のちにニーチェは、友人への手紙で、自分には先駆者がいたと驚きをもって記した。1929年、アインシュタインは、神を信じるかと問われて、存在するものの調和の中に自らを現すスピノザの神を信じる、人間の運命や行いに関わる神ではない、と答えた。

アムステルダムのユダヤ人共同体の破門は、いまも正式には解かれていない。ハーグの運河沿いの、彼が最期を過ごした家は、いまも残っている。

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