人物

アダム・スミス

Adam Smith
AD1723年(6月5日洗礼) – AD1790年7月17日(享年67・推定)
イギリス重要度 5

概要

グラスゴーの道徳哲学の教授。人が自分の利益を追うことが、意図せず社会の富を増やすと論じた。「見えざる手」は本の中で一度しか出てこない。

関わったできごと(1)

『国富論』AD1776年 · 著者

本文

1723年、スコットランドの東海岸の港町カーコーディに生まれた。正確な誕生日は分からず、記録に残るのは6月5日に洗礼を受けたことである。父は同じ名のアダム・スミスで、税関の役人だったが、息子が生まれる数か月前に亡くなっている。スミスは母マーガレットに育てられ、母が亡くなるまでほぼ一緒に暮らした。生涯独身で、母を深く慕った。幼いころ、旅回りの一団に連れ去られかけたという話が伝わっているが、確かめようがない。

アダム・スミスの肖像
アダム・スミスの肖像Wikimedia Commons Etching created by Cadell and Davies (1811), John Horsburgh (1828) or R.C. Bell (1872). · Public domain

14歳でグラスゴー大学に入り、道徳哲学の教授フランシス・ハチソンに強い影響を受けた。人には生まれつき他人を思いやる感覚が備わっている、という考えを説いた人である。17歳で奨学金を得てイングランドのオックスフォード大学に移り、6年を過ごした。そこで見たのは、教授の多くが講義をすることさえやめているという有様だった。スミスは後に『国富論』で、給料が教える努力と関係なく支払われる大学では、教授は怠けるようになる、と書いている。オックスフォードでは、図書館で手当たり次第に本を読んで過ごした。

故郷に戻り、1748年からエディンバラで公開講義を行って評判を得た。1751年にグラスゴー大学の論理学の教授、翌年には道徳哲学の教授となった。この頃、哲学者デイヴィッド・ヒュームと知り合い、二人は生涯の親友になる。ヒュームはスミスより12歳年上で、宗教を疑う議論で知られ、大学の職に就けなかった人だった。

アダム・スミスの肖像(ミュア版)
アダム・スミスの肖像(ミュア版)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1759年、最初の本『道徳感情論』を出した。人はなぜ他人の喜びや悲しみを自分のことのように感じるのか、という問いから始まる本である。人は自分の行いを、心の中にいる「公平な観察者」の目で眺めて判断する。他人にどう見られるかを想像する力が、道徳の土台になる、とスミスは論じた。本は好評で、スミスの名はヨーロッパに知られた。

1764年、スミスは大学を辞め、若い貴族バクルー公の家庭教師として大陸へ旅立った。給料は大学の倍近く、しかも生涯の年金がついた。南フランスのトゥールーズに1年半いたが、退屈して、この間に経済についての本を書き始めたとされる。ジュネーヴではヴォルテールを訪ね、パリでは国王の侍医で、富の源は農業にあると説いた経済学者ケネーや、のちに財務総監となるテュルゴーらと議論を交わした。1766年、旅の途中でバクルー公の弟が病死し、一行は帰国した。

帰国後、スミスはカーコーディに戻り、母と暮らしながら10年近くかけて一冊の本を書いた。1776年3月に出た『国富論』である。その冒頭に、有名なピン工場の話がある。一人の職人がすべての工程をこなせば、一日に1本のピンも作れないかもしれない。ところが、針金を伸ばす人、切る人、尖らせる人と、18ほどの工程を分けて10人で働くと、一日に4万8000本ものピンができる。分業こそが豊かさの源だ、というのである。

『国富論』に関わる図版:Wealth of Nations
『国富論』Wikimedia Commons Gerhard Streminger · Public domain

人が自分の利益を追うことが、意図しないうちに社会全体の富を増やす。スミスはこれを、私たちが夕食にありつけるのは、肉屋や酒屋やパン屋の慈悲のおかげではなく、彼らが自分の利益を考えるからだ、という言葉で説明した。国内の産業に資本を投じる人は、自分の利益だけを考えているが、そのとき「見えざる手」に導かれて、自分が意図していなかった目的を推し進めている。ただし、この「見えざる手」という言葉は『国富論』の中で一度しか出てこない。後の時代に、この一句がスミスの考えの全体を表すかのように語られるようになった。

『国富論』の矛先は、むしろ当時のヨーロッパの国々の政策に向いていた。国の富を金や銀の量で測り、輸出を奨励して輸入を抑え、特定の商人に独占の特権を与える、いわゆる重商主義である。スミスは、そうした仕組みは一部の商人を太らせ、消費者を貧しくすると批判した。同業の商人が集まると、話は必ず世間をだます相談か、値段を吊り上げる企みで終わる、とまで書いている。スミスは商人の味方ではなく、競争の味方だった。一方で、国防、裁判、道路や橋のような公共の事業、そして庶民の教育は、国が担うべきだと考えた。同じ本の中で、反乱を起こしたアメリカ植民地との関係についても論じ、植民地を力で抱えておくことの費用の大きさを指摘している。

スミスの母、マーガレット・ダグラスの肖像
スミスの母、マーガレット・ダグラスの肖像Wikimedia Commons attr. Conrad Metz (1749-1827) · Public domain

『国富論』が出たのと同じ1776年の夏、ヒュームが亡くなった。スミスは最後の数か月を見舞い、死を前にしても穏やかで機知を失わなかった友の姿を書き残した。信仰を持たない人がこれほど立派に死んだと書いたことで、スミスは教会の側から非難された。

1778年、スミスはエディンバラでスコットランドの関税委員に任命された。自由な貿易を説いた人が関税を取り立てる役人になったのは皮肉に見えるが、本人は職務に熱心だったという。父と同じ税関の仕事でもあった。1787年にはグラスゴー大学の名誉職である学長に選ばれ、この上ない名誉だと喜んだ。

重農主義学派を代表するフランソワ・ケネー
重農主義学派を代表するフランソワ・ケネーWikimedia Commons Johann Georg Wille / After Jean Chevalier · Public domain

スミスは放心することで知られた。考え事をしながら歩いて、気づくと町の外まで来ていたといった逸話がいくつも伝わっている。晩年は『道徳感情論』の改訂に力を注いだ。1790年、死を前にして、友人たちに頼んで未完の原稿をほとんどすべて焼かせた。法と統治の歴史をまとめた大きな仕事を構想していたとされるが、その中身は学生の講義ノートから一部がうかがえるだけである。同じ年の7月17日、エディンバラで67歳で亡くなった。

スミスは「経済学の父」と呼ばれる。ただし、利己心をそのまま肯定した人という像は、二冊の本の片方だけを読んだ姿である。思いやりの本を書いた人が、市場の本を書いた。その両方がそろって、スミスの考える人間と社会になる。のちのトマス・マルサスやリカード、さらにマルクスまで、経済を論じる人々はスミスを出発点にした。

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