ゼンメルワイスの手洗い
概要
ウィーン総合病院の産科は、医師の病棟の産褥熱の死亡率が10%を超え、助産婦の病棟は4%だった。ゼンメルワイスは、医師が朝の解剖から手を洗わずに分娩に来ることに気づいた。晒し粉の水で手を洗わせた。死亡率が1%台に落ちた。同僚は「自分たちが殺していた」と言われたに等しく、認めなかった。彼は職を追われ、精神病院で、看守に殴られた傷の敗血症で死んだ。47歳。細菌はまだ知られていなかった。
場所
48.21°N 16.37°E · オーストリア
関わった人(1)
イグナーツ・ゼンメルワイスAD1818年7月1日–AD1865年8月13日 · 洗わせた本文
19世紀の前半、ヨーロッパの大きな病院の産科では、子を産んだばかりの女性が次々に高熱を出して死んでいった。産褥熱である。お産のときにできた傷から病原体が入り、体じゅうに広がる病気だが、当時はその原因が分からなかった。悪い空気、体質、気候、恐怖心、さまざまな説が唱えられた。病院でお産をするほうが、家で産むより危ないとさえ言われていた。
ウィーン総合病院の産科は、ヨーロッパ最大級の規模を誇り、1840年代には二つの病棟に分かれていた。第一病棟では医師と医学生が、第二病棟では助産婦と助産婦の見習いが、お産を受け持った。運ばれてきた妊婦がどちらに入るかは、曜日で決まった。ところが、二つの病棟の死亡率は大きく違った。1841年から1846年の平均で、第一病棟は10%近く、第二病棟は4%ほど。ひどい月には、第一病棟の死亡率は18%を超えた。そのことは町の女性たちにも知られていて、第一病棟に当たる日には入院を泣いて拒む人や、病院に着く前に道ばたで産んでしまう人がいた。道で産んだ女性のほうが、むしろ産褥熱にかかりにくかった。

1846年、この第一病棟の助手になったのが、ハンガリーのブダの商人の家に生まれた20代の医師、イグナーツ・ゼンメルワイスである。彼はこの違いの理由を突き止めようとした。第一病棟では仰向けで産ませ、第二病棟では横向きで産ませていたので、姿勢を揃えてみた。死にゆく人に秘蹟を授けに来る司祭が鳴らす鈴の音が妊婦をおびえさせるのではないかと考え、司祭に道を変えてもらった。換気、混み具合、食事。どれを変えても、死亡率は下がらなかった。
手がかりは、悲しい出来事から来た。1847年3月、親しい友人で法医学の教授だったヤコプ・コレチカが、遺体の解剖の最中に学生のメスで指を傷つけ、数日後に死んだ。ゼンメルワイスがその解剖の記録を読むと、体の中の所見は、産褥熱で死んだ女性たちとそっくりだった。何かが、遺体からコレチカの傷へ入ったのだ。そして気づいた。第一病棟の医師と学生は、朝、解剖室で遺体を扱い、その手で、ろくに洗いもせずにお産の診察に来る。助産婦たちは解剖をしない。医師たちの手が、遺体から何かを運んでいるのではないか。彼はそれを「死体の粒子」と呼んだ。細菌が病気を起こすことは、まだ誰も知らなかった。

1847年5月、ゼンメルワイスは、病棟に入る者全員に、塩素を含む晒し粉の水で手を洗うことを義務づけた。石鹸で洗っても残る遺体の臭いが消えるので、毒も消えるだろうと考えたのである。効果ははっきりと出た。4月に18%を超えていた第一病棟の死亡率は、6月には2%ほど、7月には1%ほどに下がり、翌1848年の一年を通して1%台にとどまった。第二病棟と変わらない、あるいはそれより低い数字である。
だが、医師たちの多くは、これを受け入れなかった。認めれば、自分たちの手が何百人もの母親を殺してきたことになる。紳士である医師の手が汚れているという考え自体が、侮辱と受け取られた。上司のクライン教授は彼を嫌い、1849年、ゼンメルワイスの助手の任期を更新しなかった。皮膚科のヘブラや病理学のロキタンスキーのように支持した有力者もいたが、ゼンメルワイス本人は長いあいだ論文を書かず、主張は人づてに伝わるばかりだった。1848年の革命でハンガリー側に同情したことも、ウィーンの医学界での立場を悪くしたといわれる。

1850年、ゼンメルワイスはウィーンを去ってペストに戻った。聖ロクス病院の産科で無給の責任者となり、同じ方法で死亡率を1%未満に抑えた。1855年にはペスト大学の産科の教授になる。1861年、ようやく自説をまとめた本を出したが、それは長く読みにくく、反対する医師たちへの激しい攻撃に満ちていた。続く公開状では、自分の教えを無視する者を、母親たちを殺す者だと名指しで非難した。論争は彼をいっそう孤立させた。
やがて、彼の言動は周りの目に異常と映るようになる。1865年7月、同僚たちは、新しい病院を見に行こうと偽って、彼をウィーンの精神病院に連れて行った。逃げようとしたゼンメルワイスは、看守たちに押さえつけられ、殴られ、拘束衣を着せられて閉じ込められた。手の傷が化膿し、8月13日、彼は敗血症で死んだ。47歳だった。生涯をかけて防ごうとした病気と同じ種類の感染で命を落としたことになる。

同じ1865年、イギリスのジョゼフ・リスターは、石炭酸を使って手術の傷を消毒する方法を試し始めていた(リスターの消毒法)。ルイ・パスツールが微生物と病気の関係を明らかにし、1879年にはパリの医学アカデミーで、産褥熱の原因はこれだと、連鎖状につながった菌の絵を黒板に描いてみせた。ロベルト・コッホらによって病原菌が一つずつ特定されていくと、ゼンメルワイスの観察は、理由の分からない経験則から、確かな科学の裏づけを持つものになった。彼は死後になって、母たちの救い主と呼ばれるようになる。
新しい事実が、それまでの常識や信念に合わないという理由で、反射的に拒まれること。それはいま、ゼンメルワイス反射と呼ばれることがある。手を洗うという単純な行いが、どれほど多くの命を救うかは、いまでは誰もが知っている。それでも、病院で働く人々の手洗いをどう徹底させるかは、21世紀の病院でもなお課題であり続けている。ブダペストにある彼の生家は、いま医学史の博物館になっている。