← 地図で見る
Event / できごと

ゼンメルワイスの手洗い

Semmelweis and handwashing
AD1847年5月
重要度 5

概要

ウィーン総合病院の産科は、医師の病棟の産褥熱の死亡率が10%を超え、助産婦の病棟は4%だった。ゼンメルワイスは、医師が朝の解剖から手を洗わずに分娩に来ることに気づいた。晒し粉の水で手を洗わせた。死亡率が1%台に落ちた。同僚は「自分たちが殺していた」と言われたに等しく、認めなかった。彼は職を追われ、精神病院で、看守に殴られた傷の敗血症で死んだ。47歳。細菌はまだ知られていなかった。

場所

ウィーン
48.21°N 16.37°E · オーストリア

関わった人(1)

イグナーツ・ゼンメルワイスAD1818年7月1日–AD1865年8月13日 · 洗わせた

本文

ウィーン総合病院の産科は、1833年から二つに分かれていた。第一病棟は医学生の実習、第二病棟は助産婦の実習。妊婦は、どちらに入るかを日で決められた。第一病棟に当たると、路上で産もうとする女がいた(「路上分娩」の方が生きて帰れると知られていた)。

数字。1841〜46年の平均、第一病棟の産褥熱の死亡率9.9%、第二病棟3.4%。ある月は第一が18%を超えた。

イグナーツ・ゼンメルワイス。ブダの商人の子。1846年、第一病棟の助手。彼は、あらゆる違いを試した。分娩の姿勢(第一は仰向け、第二は横向き)。司祭が終油に来る鈴の音(怖がって死ぬのか)。換気。混雑。全部変えても、変わらなかった。

1847年3月、友人で法医学の教授だったヤコブ・コレチカが、解剖の実習で学生のメスが指に触れて、数日後に死んだ。ゼンメルワイスは、その解剖の記録を読んだ。産褥熱で死んだ女と、同じ所見だった。胸膜炎、心膜炎、腹膜炎、髄膜炎。

分かった。第一病棟の医師と学生は、朝、解剖室で死体を扱ってから、手を洗わずに(水と石鹸で拭くだけで)、分娩に来る。助産婦は解剖をしない。「死体の粒子(カダヴェレース・パルティケルン)」を、医師が運んでいる。

1847年5月、塩素水(晒し粉の液。手の死臭を消すという理由で選んだ)で手を洗うことを、病棟の全員に義務づけた。4月の死亡率18.3%が、6月に2.2%、7月に1.2%、8月に1.9%。1848年は年間1.27%。

同僚は、認めなかった。「我々が女を殺していた」と言われることになる。上司のクラインは彼を嫌い、1849年、契約を更新しなかった。ウィーンの医学界の指導者ロキタンスキーとスコダは初め支持したが、離れた。ゼンメルワイスは論文を書かなかった(友人が代わりに発表した)。1848年革命で、彼がハンガリー側に同情したことも響いた。

1850年、ウィーンを去ってペストへ。聖ロクス病院の無給の産科部長。同じ方法で、死亡率を0.85%にした。1855年、ペスト大学教授。1861年、ようやく本を書いた。『産褥熱の病因、概念、予防』。543ページ。読みにくく、反対者への攻撃が激しかった。公開状。「もしあなたが、あなたの学生に、私の教えを伝えずに死なせるなら、あなたは殺人者である。……産婦人科医の中の、ネロである」。

精神が壊れていった。1865年7月、同僚が精神病院へ連れて行った(診察のためだ、と偽って)。彼は逃げようとして、看守に押さえつけられ、殴られ、拘束衣で暗室に入れられた。右手の傷が化膿した。8月13日、敗血症で死んだ。47歳。彼が理解し、防ぎ方を知っていた病気で。

同じ年、リスターが石炭酸を使い始めた。1879年、パスツールがパリの学会で「産褥熱の原因はこれだ」と黒板に連鎖球菌の絵を描いた。

「ゼンメルワイス反射」——新しい事実が、既存の常識と信念に合わないという理由で、拒まれること。彼の名は、その言葉に残った。ブダペストの彼の生家は、いま医学史博物館で、庭に墓がある。

同じ時代のできごと

ロケット号とレインヒルAD1829年10月6日サティーの禁止AD1829年七月革命AD1830年7月27日『富嶽三十六景』1830年涙の道1830年ジャワの強制栽培制度AD1830年ビーグル号の航海AD1831年12月27日電磁誘導の発見AD1831年8月29日