ホスロー1世の改革
概要
税を土地の測量に基づく定額にし、軍を国が養う騎兵に変えた。ササン朝の最盛期で、アテナイを追われた哲学者を受け入れ、インドから『パンチャタントラ』とチェスを得た。
場所
33.09°N 44.58°E · イラク
本文
ホスロー1世が即位した531年、ササン朝はまだ揺れの中にあった。父カワード1世の治世に、マズダクという宗教指導者の運動が広がっていた。財産を分け合い、富める者が独り占めしているものを貧しい者に返せ、と説く。飢饉と重税に苦しむ民衆がそれに乗り、貴族の倉や屋敷が襲われた。カワードは一時この運動を後ろ盾にして、力を持ちすぎた大貴族と神官を抑えようとしたが、やがて手に負えなくなる。皇太子だったホスローは、即位の前後にマズダク派の指導者たちを捕え、大勢を処刑したと伝えられる。
運動は鎮まったが、古い大貴族の多くも騒乱で力を失っていた。ホスローはその空白を使って、国の仕組みを王の手に集めた。改革の芽は父の代に始まっていたとされ、ホスローがそれを仕上げたと見るのがふつうである。

いちばん大きいのは税である。それまでの地租は収穫の何割かを取る方式で、豊作か凶作かで額が変わり、毎年の査定に役人の手心と賄賂が入りこんだ。新しい方式では土地を測量し、麦や大麦の畑は面積ごとに、ぶどうやなつめやしは木の本数ごとに、決まった額を課した。人頭税も、財産に応じていくつかの等級に分けた。貴族、神官、兵士、書記は免除された。国はおよそどれだけ入るかを前もって知ることができ、農民は払う額が分かる。この仕組みは、のちにササン朝を倒したイスラームの政権がほとんどそのまま受け継ぎ、地租の制度の土台になった。
軍も作り変えた。それまでの騎兵は大貴族が自分の領民を率いて出てくるもので、王は貴族の機嫌をうかがわなければ戦えなかった。ホスローは、デフカーンと呼ばれる中小の地主に馬と武具と給与を国から与え、王に直接仕える騎兵にした。国土を東西南北の四つの軍管区に分け、それぞれに司令官を置いた。一人の将軍が国の全軍を握ることがなくなる。

後世、ホスローは「アヌーシールワーン(不死の魂を持つ者)」と呼ばれ、公正な王の手本としてペルシアやアラブの文学に繰り返し描かれる。宮廷には学問が集まった。529年に東ローマのユスティニアヌスがアテナイのアカデメイア閉鎖を命じると、居場所を失ったダマスキオスら7人の哲学者がペルシアに来た。ただ、彼らはこの国に失望して数年で帰ったと、東ローマの歴史家アガティアスは書いている。532年の和約には、彼らが帰国後に迫害されないという条項まで入った。インドからは医師ブルズーイェが寓話集『パンチャタントラ』を持ち帰って中世ペルシア語に訳し、これがのちにアラビア語の『カリーラとディムナ』になって西へ広がった。チェスがインドから伝わったのもこの王の時代と伝えられる(チャトランガとチェスの伝播)。
都クテシフォンには、いまも高さ30メートルを超える煉瓦の大アーチが残っている。「ホスローのアーチ(ターク・キスラー)」と呼ばれ、ホスロー1世の宮殿の一部と伝えられてきた(建てた王については異説もある)。後世の物語では、この宮殿の前に貧しい老婆の小屋が建っていて、王は立ち退かせずに宮殿のほうを曲げて造らせた、という話まで生まれた。11世紀のセルジューク朝の宰相ニザーム・アルムルクも、統治の心得を説く書物の中で、公正な王の例としてホスローの逸話を繰り返し引いている。史実の王は反乱者を容赦なく殺した人でもあったが、記憶の中では「正義の王」になった。

外ではローマとの戦いが続いた。532年、ホスローはユスティニアヌス1世と「永遠の平和」を結び、多額の金を受け取った。ユスティニアヌスが西の再征服に兵を向けられたのは、この和約のおかげでもある。しかし平和は8年しかもたなかった。540年、ホスロー自身がシリアへ攻め込み、大都市アンティオキアを落として住民を連れ去った。562年には50年の和約を結ぶが、これも10年後には破れる。
ホスローは579年に死んだ。国は彼の代に最も広く、最も豊かになったとされる。だが、彼が整えた国庫と軍は、孫のホスロー2世の代(7世紀初め)にローマとの26年に及ぶ戦争で使い果たされ、まもなくササン朝はカーディシーヤの戦いに敗れて崩れていく。改革の果実を最も長く味わったのは、皮肉にもササン朝を倒した側だった。