『資本論』

概要
大英博物館の閲覧室で20年。第1巻、ハンブルクで1000部。商品、価値、剰余価値、労働日、機械、本源的蓄積。「資本は頭から足の先まで、毛穴という毛穴から血と汚物を滴らせて生まれてくる」。マルクスは第2巻と第3巻を書き終えずに死に、エンゲルスが草稿から編集した。19世紀で最も影響の大きい本の一つを、ほとんど誰も最後まで読んでいない、と言われる。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(2)
カール・マルクスAD1818年5月5日–AD1883年3月14日 · 書いたフリードリヒ・エンゲルスAD1820年11月28日–AD1895年8月5日 · 2・3巻を編集本文
1867年9月14日、ドイツのハンブルクの出版社マイスナーから、一冊の分厚い本が出た。題は『資本論 経済学批判』、副題は「第1巻 資本の生産過程」。著者はロンドンに亡命していたドイツ人カール・マルクスで、刷られたのは1000部だった。資本主義という仕組みがどう動き、なぜ富と貧困を同時に生み出すのかを解き明かそうとしたこの本は、20世紀の世界の半分の国の政治を方向づけることになる。
マルクスがロンドンに着いたのは1849年8月である。前年の革命の波がヨーロッパ各地で敗れ、ドイツからもパリからも追われた末の亡命だった。彼は1848年に、友人のフリードリヒ・エンゲルスと『共産党宣言』(『共産党宣言』)を書いていたが、革命がなぜ失敗したのかを理解するには、資本主義の経済そのものを根本から分析し直さなければならないと考えた。翌年から、彼は大英博物館の図書室(誰でも入れる博物館)に通い始めた。ほぼ毎日、朝から夕方まで、経済学の古典、議会の報告書、統計を読み、膨大なノートを取った。

生活は苦しかった。ロンドンのソーホーの狭い住まいで、子どもを何人も貧困と病気の中で亡くした。エンゲルスが父の会社の仕事をしながらマンチェスターから送る金が、一家の暮らしを支えた。マルクスは1857年から58年にかけて『経済学批判要綱』と呼ばれる長い草稿を書き、1859年には『経済学批判』の最初の分冊を出したが、続きは出なかった。もうすぐ書き上がる、と彼はエンゲルスに何年も書き送り続けた。晩年の数年は、皮膚にできる腫れ物に悩まされ、仕事が何か月も止まることもあった。第1巻を書き上げたとき、ブルジョワたちは死ぬまで私の腫れ物を思い知るだろう、と冗談まじりに書いている。
序文でマルクスは、この本の最終目的は近代社会の経済の運動法則を明らかにすることだと述べた。分析の出発点に選んだのは、資本主義社会の富の最小単位である「商品」だった。商品には、人の役に立つという「使用価値」と、ほかの商品と交換される割合である「交換価値」がある。マルクスは、アダム・スミスやリカードの考えを受け継ぎ、商品の価値はそれを作るのに社会的に必要な労働の時間で決まるとした。そのうえで、人と人の関係にすぎないものが、商品と商品の関係、さらにはお金の力として人の前に立ち現れる倒錯を、「商品の物神性」と呼んだ。

本の核心は「剰余価値」の説明である。資本家はお金で商品を買い、それを売ってより多くのお金を得る。だが、すべての商品が価値どおりに交換されるなら、増えた分はどこから来るのか。マルクスの答えは、労働者が売っているのは労働そのものではなく「労働力」という商品だ、というものだった。資本家は労働力を、労働者が生きていくのに必要な分の価値(賃金)で買い、それより長く働かせる。賃金に見合う時間を超えて働いた分が、剰余価値として資本家のものになる。
マルクスはこの理屈を、イギリスの工場監督官の報告書や議会の調査から集めた具体的な事実で裏づけた。10歳に満たない子どもも働かされるマッチ工場、20時間以上働き続けて死んだ若いお針子、1日の労働時間を法律で制限しようとする長い闘い。こうした描写は、抽象的な理論のあいだに挟まれて、本の中で最も読まれる部分になった。機械が労働者を楽にするどころか、仕事を単純にして女性や子どもを工場に引き入れ、労働時間を延ばしたことも、彼は詳しく論じた。

終わり近くの章では、資本主義がどう始まったかが語られる。イギリスで農民が共有地を囲い込まれて土地を追われ、身一つの労働者として都市に流れ込んだこと。アメリカの銀山、アフリカの奴隷貿易、インドの征服が、ヨーロッパに最初の富を集めたこと。マルクスは書く。資本は、頭のてっぺんから足の先まで、あらゆる毛穴から血と汚物を滴らせながらこの世に生まれてくる。そして、資本がますます少数の手に集まり、労働者の貧困と怒りが積み重なった末に、資本主義的な私有の終わりを告げる鐘が鳴る、収奪者が収奪される、と予言した。
初めのうち、本はほとんど売れなかった。ドイツの新聞はろくに取り上げず、エンゲルスは名を伏せて自ら書評を何本も書いた。最初の1000部が売り切れるまでに4年かかった。だが、1872年にロシア語訳が出ると状況が変わった。ロシアの検閲官は、ロシアでこれを読む人はわずかで、理解できる人はさらに少ないとして出版を許したが、3000部はたちまち売れた。同じ年からはマルクス自身が手を入れたフランス語版が分冊で出始め、彼はその序文で、学問に平坦な大道は無く、険しい小道をよじ登る労を惜しまない者だけが頂上に達する、と読者に呼びかけた。1873年、マルクスはドイツ語第2版をチャールズ・ダーウィンに献呈の言葉を添えて送った。ダーウィンは丁寧な礼状を返したが、残された彼の蔵書は、最初の100ページほどから先は頁が切られていなかったという。英語訳が出たのはマルクスの死後の1887年である。

マルクスは第2巻と第3巻を書き終えないまま、1883年に死んだ。残されたのは、判読の難しい筆跡で書かれた草稿の山だった。エンゲルスは自分の仕事をなげうって草稿を整理し、1885年に第2巻(資本の流通過程)、1894年に第3巻(資本主義的生産の総過程)を出した。利潤率がしだいに下がっていく傾向や、地代、信用の仕組みは、この第3巻で扱われる。エンゲルスがどこまで手を加えたかについては、いまも研究者のあいだで議論がある。剰余価値の学説の歴史を扱う予定だった部分は、のちにカウツキーが『剰余価値学説史』として出版した。
『資本論』は、労働運動と社会主義の政党にとって理論の柱になり、ロシアではレーニンらがこれを読んで育った(ロシア革命)。日本では、1920年から24年にかけて高畠素之が初めての完訳を出している。20世紀の社会主義国家の多くが崩れた後も、この本は経済学、社会学、歴史学の古典として読まれ続けている。2008年の世界金融危機の後には、ドイツなどで売り上げが伸びたことが話題になった。ただし、最後まで読み通した人は多くない、とよく言われる。最初の商品の章でつまずく読者が多いのである。マルクス自身、どんな学問でも初めが難しいと序文で認めている。