先住民による西洋批評
概要
ウェンダットの指導者カンディアロンクが、金と身分と刑罰でしか人を動かせないフランス人を論駁した。その対話が本になり、ヨーロッパで版を重ねる。
場所
46.81°N -71.21°E · カナダ
関わった人(1)
カンディアロンクAD1649年頃–AD1701年8月2日 · 論じた本文
17世紀の北アメリカ、五大湖のあたりには、ウェンダットと呼ばれる人びとが暮らしていた。フランス人は彼らをヒューロンと呼んだ。トウモロコシなどを育てる大きな村を作り、毛皮の交易でフランスと結んでいたが、1649年、南のイロコイ連邦(イロコイ連邦)の攻撃で故郷を追われ、各地へ散った。
カンディアロンクは、その流れをくむ一派の指導者だった。1649年ごろに生まれたとされ、五大湖の北西の交易の要地ミシリマキナックを拠点にした。フランスとイロコイが争うあいだで、自分たちの民が生き残る道を探り続けた人である。1688年には、フランスとイロコイが自分たちを抜きに和平を結ぼうとしたとき、イロコイの使節団を待ち伏せして襲い、フランス総督の命令でやったと偽って、和平を壊したという話が伝わる。

弁舌に優れた人だった。フランスの役人やイエズス会の神父たちの記録にも、その話の巧みさ、論の鋭さがくり返し書きとめられている。フランス総督の食卓に招かれて、キリスト教やフランスの暮らしについて議論を交わすこともあったという。
フランスの貴族ラオンタン男爵は、若い士官として1680年代にカナダへ渡り、10年ほどを過ごした。その間に、カンディアロンクと交わり、議論したとされる。帰国後、本国での立場を失ったラオンタンはヨーロッパ各地を転々とし、1703年、オランダのハーグで北アメリカについての本を出した。その一冊が、先住民の賢者アダリオと、フランス人の対話という形をとった『良識ある未開人との対話』である。アダリオのモデルがカンディアロンクだと、ラオンタン自身が述べている。

その中でアダリオは、ヨーロッパの文明を容赦なく批判する。あなたたちは金がなければ何もしない。金のために盗み、だまし、互いを売る。盗みを罰する法と牢屋があるのは、持つ者と持たざる者を作り、盗む理由を作っているからだ。王や上の者に命令されなければ動かず、身分の上の者の前ではひざまずく人間を、なぜ自由と呼べるのか。私たちは誰の命令も受けず、誰にも仕えない。食べものは分け合い、腹をすかせた者を放っておかない。
本はよく売れた。版を重ね、英語やドイツ語、オランダ語に訳され、18世紀のヨーロッパで広く読まれた。舞台にもなり、パリでは先住民がフランスの社会を笑う芝居が上演された。
どこまでがカンディアロンクの実際の言葉で、どこからがラオンタンの創作なのかは、分からない。ヨーロッパの書き手が、自分の社会を批判するために「高貴な未開人」の口を借りるのは、当時よくある手法だった。そのため、この対話はラオンタン自身の考えにすぎない、と見る研究者が多かった。一方で、アダリオの論の多くは、イエズス会の神父たちが先住民から実際に聞かされたと報告している反論と重なる、という指摘もある。先住民の社会を間近で見た人びとが、くり返し同じ種類の批判を記録しているのである。
カンディアロンクは1701年、フランスと先住民の諸部族、そしてイロコイのあいだで大きな和平を結ぶためにモントリオールに集まった会議のさなかに、病で死んだ。会議に集まった諸部族とフランス人がそろって葬儀に参列し、和平はその直後に結ばれた。
デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウは『万物の黎明』で、ここに大きな賭けをしている(物語「『万物の黎明』で読む歴史」)。ヨーロッパの啓蒙思想が語りはじめた自由と平等の考えは、ヨーロッパの内側から自然に出てきたのではない。先住民の社会と、その人びとがヨーロッパ人に突きつけた批判に、どう応えるかという中から生まれた、という筋立てである。ヴォルテールも、ラオンタンの本を下敷きにしたとされる作品を書いた。ジャン=ジャック・ルソーが不平等の起源を論じたときにも、こうした先住民の像が念頭にあった、と著者たちは論じる。
この見方には、証拠に比べて主張が大きすぎるという批判もある。それでも、ヨーロッパの思想史を、ヨーロッパの外からの声に耳を傾けて読み直すという問いは、多くの読者の関心を呼んだ。