人物

フリードリヒ・エンゲルス

Friedrich Engels
AD1820年11月28日 – AD1895年8月5日(享年74)
共産主義重要度 5

概要

バルメンの紡績工場主の長男。マンチェスターの父の工場で働きながら『イギリスにおける労働者階級の状態』を書いた。マルクスと40年。生活費を送り続けた。「私は第二ヴァイオリンだった」。『反デューリング論』『家族・私有財産・国家の起源』。マルクスの死後、『資本論』第2巻と第3巻を編集した。狐狩りが好きだった。

関わったできごと(2)

『共産党宣言』AD1848年2月21日 · 書いた『資本論』AD1867年9月14日 · 2・3巻を編集

本文

フリードリヒ・エンゲルスは1820年11月28日、プロイセン王国のライン地方、ヴッパータールのバルメンで生まれた。父は紡績工場を営む裕福な企業家で、敬虔主義の厳格なプロテスタントだった。長男のフリードリヒに家業を継がせるつもりの父は、彼を17歳でギムナジウムから退学させ、北ドイツの港町ブレーメンの商社に見習いに出した。

フリードリヒ・エンゲルスの肖像
フリードリヒ・エンゲルスの肖像Wikimedia Commons William Hall (1826–ca. 1898) (cropped and sepia tone removed) · Public domain

ブレーメンで商売を学びながら、エンゲルスは夜ごと本を読み、ヘーゲルの弟子たちのうちで宗教と政治を急進的に批判する青年ヘーゲル派の思想に引かれていった(ヘーゲル『精神現象学』)。1839年には、偽名で故郷の工業都市の労働者の悲惨な暮らしを告発する文章を新聞に寄せている。1841年、兵役のためにベルリンに移り、大学の講義を聴講して、青年ヘーゲル派の仲間に加わった。

1842年、父は彼を、共同経営する紡績工場のあるイギリスのマンチェスターに送った。産業革命の中心地である。エンゲルスは工場で働くかたわら、労働者の住む地区を歩き回り、その暮らしを観察した。案内したのは、アイルランド出身の女工メアリー・バーンズだったと考えられている。二人は結婚という制度を拒んだまま、メアリーが1863年に亡くなるまで共に暮らした。その後は妹のリジー・バーンズと暮らし、1878年、死の床にあったリジーの願いで、死の前日に結婚した。1845年、エンゲルスは『イギリスにおける労働者階級の状態』をドイツで出版した。悪臭の漂う路地、地下室の住まい、子どもの労働、病と早死にを、統計と自らの見聞で描いたこの本は、産業革命が労働者に何をもたらしたかを示した古典となった。

1844年8月、イギリスからの帰途、エンゲルスはパリでカール・マルクスと会い、10日間語り合った。二人は、あらゆる理論の分野で意見が一致していることを知った。そこから40年に及ぶ協力が始まる。二人は共著で『聖家族』『ドイツ・イデオロギー』を書き、秘密結社の共産主義者同盟に加わって、その綱領として1848年2月に『共産党宣言』を発表した。エンゲルスが前年に書いた問答形式の草稿が、その下書きの一つになっている。

『共産党宣言』に関わる図版:Communist-manifesto
『共産党宣言』Wikimedia Commons Friedrich Engels , Karl Marx · Public domain

1848年革命が起きると、二人はケルンで『新ライン新聞』を出した。翌1849年、エンゲルスは南西ドイツのバーデンとプファルツでの蜂起に加わり、義勇軍の副官として実際に戦った。反乱が鎮圧されると、スイスを経てイギリスに逃れた。のちに彼は軍事の評論を多く書き、仲間内では「将軍」とあだ名された。

ロンドンに亡命したマルクスは、極貧の中で研究を続けた。それを支えたのがエンゲルスである。1850年、エンゲルスはマンチェスターに戻って父の会社で働き始めた。かつて捨てたはずの商売の世界に戻り、昼は綿工業の商人として働き、その収入からマルクスの一家に仕送りを続けた。のちに共同経営者になると、送る額はさらに増えた。紳士の装いで取引所に通い、乗馬クラブに入り、狐狩りにも加わった。そのかたわら、マルクスの名で新聞に載る記事を代わりに書くこともあった。1869年、エンゲルスは会社の持ち分を売り払い、翌年ロンドンに移って、マルクスの家の近くに住んだ。マルクスに年金のような定額の送金を約束したうえでのことだった。

ロンドンでは、各国の社会主義者たちとの連絡役を担い、第一インターナショナルの運営にも関わった。著作も多い。1878年の『反デューリング論』は、ドイツの社会主義者の間で人気のあった学者デューリングを批判しながら、マルクス主義を哲学・経済・社会主義の全体にわたって体系的に説明した。その一部を抜き出した『空想から科学へ』は、マルクス主義の入門書として広く読まれた。1884年の『家族・私有財産・国家の起源』では、アメリカの人類学者モーガンの研究を手がかりに、私有財産と国家の成り立ちを論じた。

第一インターナショナルに関わる図版:Geneva Congress of the First International, 1866
第一インターナショナルWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1883年3月、マルクスが死んだ。墓前での弔辞でエンゲルスは、チャールズ・ダーウィンが生物の発展の法則を発見したように、マルクスは人間の歴史の発展の法則を発見した、と述べた。それからの12年、エンゲルスはマルクスが残した膨大な草稿の整理に費やした。乱雑なマルクスの筆跡を読める者は、ほとんど彼しかいなかった。1885年に『資本論』第2巻を、1894年に第3巻を出版した(『資本論』)。同時に、各国の社会主義政党の相談役として、ドイツ社会民主党をはじめとする運動に助言を送り続けた。

1895年8月5日、エンゲルスはロンドンで喉の癌のため死んだ。74歳。遺言により遺体は火葬され、遺灰は彼の愛したイングランド南部の海岸、イーストボーンの沖の海に撒かれた。

エンゲルス19歳の自画像
エンゲルス19歳の自画像Wikimedia Commons George Wilhelm Feistkorn · Public domain

エンゲルスは自分を、マルクスの第二ヴァイオリンだったと語っている。マルクスは天才であり、自分たちはせいぜい才能があるにすぎなかった、と。だがマルクス主義を一つのまとまった世界観として広めたのは、多くの部分でエンゲルスの著作だった。後にレーニンらが受け継いだマルクス主義は、エンゲルスを通して読まれたマルクスでもあった。近年の研究では、エンゲルスがマルクスの思想を自然科学のような法則の体系に近づけすぎたのではないか、という議論もある。一方で、工場主の息子として資本主義の内側で働きながら、その仕組みを批判し続けた彼の生涯そのものが、19世紀という時代の矛盾を映している。

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