モンテッソーリの子どもの家
概要
ローマのスラム、サン・ロレンツォ地区。親が働く間、放置されていた3歳から6歳の子ども50人余りを預かる施設として始まった。医師マリア・モンテッソーリは、知的障害児の教育で用いた教具を、ここで健常児に試した。子どもは自分で教具を選び、集中し、繰り返し、そして満足すると自分で片付けた。大人が教え込むのではなく、環境を整えて子どもが自分で学ぶのを待つ。子どもの背丈に合わせた家具も、彼女の考案である。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(1)
マリア・モンテッソーリAD1870年8月31日–AD1952年5月6日 · 始めた本文
ローマの東部にあるサン・ロレンツォ地区は、19世紀の終わりに投機目当ての集合住宅が次々に建てられ、建設会社が破綻した後、半ば放り出された町だった。貧しい労働者や仕事を失った人々が住みつき、上下水道は整わず、一つの部屋に一家族が詰め込まれていた。1906年、この地区の建物を立て直して管理していた不動産の団体は、一つの問題を抱えていた。親が働きに出ているあいだ、学校に上がる前の3歳から6歳の子どもたちが、建物の中に放っておかれていたのである。子どもたちは階段や廊下で遊び、壁を汚し、物を壊した。
団体の責任者エドアルド・タラモは、子どもたちを建物の一室に集めて世話をする案を考え、その運営を一人の女性医師に頼んだ。それがマリア・モンテッソーリである。

モンテッソーリは1870年、イタリア中部のアンコーナに近いキアラヴァッレで生まれた。父は役所勤めの官吏で、母は教養のある女性だった。女子がほとんど進まない技術の学校に入り、初めは技師を志したが、やがて医学に転じた。女性が医学部に入ることには強い抵抗があり、入学までには苦労があった。男子学生と並んで解剖の実習をすることを許されず、夜に一人で遺体と向き合ったとも伝えられる。1896年に医学部を卒業し、イタリアで最も早い時期の女性医師の一人になった。
卒業後、彼女はローマ大学の精神科の診療所で助手として働いた。そこで出会ったのが、施設に入れられた知的障害のある子どもたちだった。子どもたちは、何もない部屋に閉じ込められていた。床に落ちたパンくずを指でつまんでは遊んでいる姿を見て、彼女はこの子たちは何かをしたがっている、手を使って何かに触れたがっているのだと考えた。

彼女は、19世紀のフランスの医師イタールとセガンの仕事を読んだ。イタールは、森で見つかった少年を教育しようとした医師であり、セガンはその仕事を受け継いで、知的障害のある子どものための、感覚を通じて学ぶ教育の仕組みを作った人である。モンテッソーリは、その意味をかみしめるために、彼らの本を自分の手で書き写して訳したという。1900年前後、彼女は障害のある子どもを教える教師の養成学校を指導し、セガンの教具を改良して子どもたちに使わせた。
結果は人々を驚かせた。彼女の教えた子どもの何人かが、普通の学校の子どもと同じ読み書きの試験に通ったのである。しかし彼女自身は、喜ぶよりも疑問を抱いた。障害のある子がこの方法でここまで来られるのなら、普通の学校の子どもたちは、どれほど力を抑えつけられているのだろうか、と。

1907年1月6日、サン・ロレンツォ地区の集合住宅の一室に、「子どもの家」が開かれた。集められたのは3歳から6歳の子ども50人あまり。多くは、読み書きのできない親の子だった。栄養が足りず、よく泣き、よくけんかをした。毎日子どもの世話をしたのは、モンテッソーリ自身ではなく、教師としての訓練を受けていない若い女性だった。彼女は、古い教え方を知らない人のほうが、余計な口出しをしないと考えていた。
モンテッソーリが力を注いだのは、環境を整えることだった。部屋には子どもの背丈に合った小さな机と、子どもが自分で運べる軽い椅子を置いた。それまで、教室の家具は大人の寸法で作られ、子どもは重い長椅子に縛りつけられるように座っていた。子どもの体に合わせた家具は、彼女の工夫として広まった。教具は、子どもが自分で手に取れる低い開いた棚に並べた。洗面台や掃除の道具、花瓶も置き、子どもが自分で使えるようにした。
やり方の柱は、子ども自身に選ばせることだった。何をするかは子どもが決める。同じことを何度繰り返してもよく、大人はそれを止めない。集中しているときは邪魔をしない。使い終わったら自分で片づける。大人は教え込むのではなく、使い方を一度やって見せ、あとは離れて見守る。
彼女が最初に強く心を動かされた場面として、繰り返し語ったものがある。3歳ほどの女の子が、大きさの違う円柱を、それぞれに合う穴に差し込む教具で遊んでいた。女の子は円柱を抜いては差し込み、また抜いては差し込んだ。数えると42回繰り返した。周りの子が歌を歌っても、気づかなかった。モンテッソーリが試しに女の子を椅子ごと持ち上げて机の上に移しても、女の子は教具を膝に抱えたまま続けた。そして終わったとき、深く満ち足りた顔で、周りを見回したという。
棚に並んだ教具には、二つの系統があった。一つは日々の暮らしの動作を練習する道具である。水差しで水を注ぐ、ボタンやひもを留める練習の枠、小さなほうきとちりとり、植物の水やり。子どもたちは大人の仕事をまねたがり、自分でできることが増えるのを喜んだ。もう一つは感覚を磨く道具で、大きさの順に積み上げる立方体の塔、色の濃さの順に並べる色の板、重さや手ざわりの違う板などがあった。どの道具も、間違えると子ども自身が気づけるように作られていて、大人が正解を教える必要がなかった。誤りに自分で気づき、自分で直すことが、学ぶことそのものだと彼女は考えた。この年の春には同じ地区に二つ目の子どもの家が開かれ、翌年にはミラノにもできた。
数か月のうちに、サン・ロレンツォの子どもたちは変わっていった、と報告されている。騒がず、順番を待ち、自分で片づけ、静かに作業に打ち込むようになった。もう一つの驚きは文字だった。モンテッソーリは、紙やすりで形を切り抜いた文字を指でなぞる板や、切り抜いた文字を並べる道具を置いていたが、字を教え込むつもりはなかった。ある日、4歳ほどの子が床にチョークで字を書き、書けた、書けたと叫んだ。ほかの子が集まり、次々に字を書き始めた。彼女はこれを、書くことの爆発と呼んだ。
評判はすぐに広がった。ローマの上流の人々や外国の教育者、新聞記者が見学に訪れた。1909年、彼女は子どもの家での実践をまとめた本を出し、1912年にその英訳がアメリカで売れ行きを伸ばした。アメリカでは学校が次々に開かれ、アレクサンダー・グラハム・ベルと妻のメイベルも彼女の運動を支えた。1915年、サンフランシスコの万国博覧会では、ガラス張りの教室で子どもたちが日常どおりに過ごす様子が、数か月にわたって公開された。
しかし、アメリカでの流行は長く続かなかった。1914年、教育学者ウィリアム・キルパトリックは、彼女の方法を検討する本を書き、時代遅れで、子どもの社会性や想像力を育てないと批判した。哲学者ジョン・デューイの考えにもとづく進歩主義の教育が、当時のアメリカの主流になりつつあった。1920年代には、アメリカのモンテッソーリの運動はほとんど消えた。再び盛り返すのは1960年代で、教育者ナンシー・ランブッシュが新しい協会を作ってからである。
ヨーロッパでの彼女の歩みも、政治に揺さぶられた。イタリアでは1920年代、識字率を上げたいベニート・ムッソリーニの政権が彼女の学校を支援し、彼女はその支えで学校を広げた。しかし子どもにファシズムの忠誠を誓わせることを拒んで政権と対立し、1934年ごろイタリアを離れた。学校はまもなく閉鎖された。スペイン、オランダと移り、1939年にはインドへ講演に招かれた。そこで第二次世界大戦が始まり、敵国イタリアの国民だった彼女はイギリス領インドで行動を制限され、息子は一時抑留された。彼女はインドに7年近くとどまり、数多くの教師を育てた。この時期に、子どもが宇宙と生命のつながりの中で自分の位置を学ぶという、より大きな教育の構想を深めた。ガンディーやラビンドラナート・タゴールとも交流している。
1946年にヨーロッパへ戻った彼女は、晩年、ノーベル平和賞の候補に何度か推された。1952年5月6日、オランダの海辺の町ノールトウェイクで亡くなった。81歳だった。
彼女には、長く公にされなかった秘密があった。1898年、彼女は精神科の同僚ジュゼッペ・モンテサーノとのあいだに男の子を産んでいる。二人は結婚しなかった。その理由ははっきりしない。未婚の母になれば職を失う時代で、子どものマリオは田舎の家に預けられた。彼女は息子を訪ねても、母と名乗らなかったという。マリオが十代半ばになると、彼女は息子を手元に引き取った。マリオはその後、母の最も近い協力者になり、ともに世界を回り、母の死後は運動を率いた。彼女はオランダの町の墓地に眠っている。子どもたちは世界中にいるのだから、死んだ場所に葬ってほしいと望んだと伝えられる。
彼女の考えには先人がいた。子どもの自然な成長を説いたルソー『エミール』、貧しい子どもの教育に身を捧げたヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ、遊びを通して学ぶ幼稚園を作ったフリードリヒ・フレーベルである。彼女はその流れに、医師としての観察と、手で触れて学ぶための具体的な道具を持ち込んだ。
いま、世界には1万を大きく超える数のモンテッソーリの学校があるとされる。ただしその名は商標として守られておらず、誰でも名乗れるため、中身には大きな幅がある。著名な起業家や作家がモンテッソーリの学校に通っていたことが宣伝に使われることも多いが、それで方法の効果が証明されるわけではない。効果を厳密に比べた研究はまだ多くないが、入学の抽選を使った比較などで、とくに貧しい家庭の子どもに良い効果が見られたという報告がある。スラムの一室で始まった試みは、子どもは環境さえ整えば自分で学ぶ、という一つの考えを世界に広げた。