ボローニャ大学の創立
概要
現存する最古の大学。学生が教師を雇う組合として始まり、法学の研究から発展した。
場所
44.49°N 11.34°E · イタリア
本文
11世紀の北イタリアでは、町が力をつけていた。商業が盛んになり、土地の売買や契約、相続をめぐる争いが増えた。教会と皇帝は、どちらが司教を任命するかをめぐって激しく対立していた。争いを裁き、権利を主張するために、筋道の通った法が求められていた。その時、再び人々の前に現れたのが、古代ローマの法だった。
6世紀にビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世がまとめさせたローマ法大全のうち、法学者たちの学説を集めた『学説彙纂』は、西ヨーロッパでは長く忘れられていた。11世紀の後半、その完全な写本がイタリアで再び知られるようになる。膨大で難解なこの書物を読み解く者のまわりに、学びたい者が集まった。ボローニャで教えたイルネリウスは、本文の行間や余白に短い注釈を書き込んで意味を明らかにする方法で名を上げ、その弟子たちは注釈学派と呼ばれた。

ボローニャ大学の創立の年とされる1088年は、実は後から定められた年である。1888年、創立800年を祝うにあたって、詩人カルドゥッチらの委員会が、イルネリウスの頃に法の教育が始まったとみて、この年を選んだ。ある年に誰かが大学を設立した、という記録があるわけではない。ボローニャの大学は、法を学ぶ人々の集まりの中から、少しずつ形を整えていった。
大学を作ったのは、学生たちだった。ヨーロッパ各地から法を学びにボローニャへ集まった学生の多くは、すでに大人で、聖職者や貴族の子弟も多かった。だが町の市民権を持たない彼らは、よそ者として扱われ、家賃をつり上げられ、何かあれば仲間の借金や罪の責任まで負わされかねなかった。身を守るために、学生たちは出身地ごとに互助の組合を作った。組合はやがて、アルプスのこちら側の出身者と向こう側の出身者の二つの大きな団体にまとまった。こうした団体を表すラテン語が、ウニウェルシタスである。もともとは「全体」「団体」という程度の意味の言葉で、それが大学を指す言葉になった。

学生の団体は、学生の中から代表を選び、教師を雇って給料を払った。規則は厳しかった。教師は定刻に講義を始め、定刻に終えなければならず、難しい箇所を飛ばしてはならず、決められた進度で教科書を最後まで読み終えなければならなかった。違反すれば罰金を取られた。町を数日離れるにも、学生の許しが要った。学生たちが自分たちの払う金に見合う教育を求めた結果である。一方で、学位を授け、誰が教師になる資格を持つかを決めるのは、教師たちの団体だった。
学生たちは、町にとっても大きな存在だった。学生が去れば、家賃も商売も失われる。学生の団体は、町との交渉がこじれると、全員で別の町へ移るという手段で圧力をかけた。実際にボローニャを離れた学生と教師たちが、パドヴァなどに新たな大学を開いたこともある。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)は12世紀半ば、学問のために旅する学生たちに保護を与える特権を認めた。ローマ法を学ぶ学者たちは、皇帝の権威を法の言葉で裏付ける存在でもあった。
12世紀の半ばには、修道士グラティアヌスが、それまでばらばらだった教会の法令を体系的にまとめた。教会法もボローニャで研究されるようになり、ローマ法と教会法という二つの法の学問が、ここを中心に発展した。法学のほかに、医学や哲学、のちには神学も教えられた。
ほぼ同じ頃、パリでは別の形の大学が生まれていた(パリ大学の成立)。パリでは神学と哲学が中心で、大学の主体は教師たちの団体だった。学生が教師を雇うボローニャ型と、教師が団体を作るパリ型という二つの手本は、その後ヨーロッパ各地に広がる大学に引き継がれた。南ヨーロッパの大学にはボローニャ型、北のオックスフォードなどにはパリ型の影響が強いとされる。
ボローニャで学んだ人々は、各地の宮廷や教会、都市に法律家として仕えた。彼らが持ち帰ったローマ法の考え方は、ヨーロッパ大陸の国々の法の土台になり、のちのナポレオン法典にもつながっていく。日本が明治時代に取り入れた民法も、この流れをくむ大陸の法である。ボローニャには、詩人のペトラルカや天文学者のコペルニクスも学んだ。18世紀には、女性の学者ラウラ・バッシが大学で物理学の教授の地位を得ている。
1999年、ヨーロッパ各国の教育大臣がこの町に集まり、国ごとにばらばらだった大学の制度をそろえ、学生が国境を越えて学べるようにする宣言に署名した。900年前に各地から集まった学生たちの団体に始まった大学が、いまもヨーロッパの学びの交差点であり続けている。