概要
趙の人。50歳で斉の稷下に遊学し、3度祭酒。讒言で楚へ。春申君が蘭陵の令にした。春申君が殺されて、免職、蘭陵で死んだ。「性は悪」。「学は止むべからず」(勧学篇)。「青は藍より出でて藍より青し」。「天行は常あり。堯のために存せず、桀のために亡びず」。礼を作った聖人と、礼を学ぶ人間。弟子の韓非と李斯が秦を作り、秦が儒者を埋めた。
関わったできごと(1)
荀子と稷下の学BC260年頃 · 祭酒本文
荀況。趙の人。「荀卿」「孫卿」(漢の宣帝の諱を避けて)。生年はBC340年からBC310年まで説がある。
『史記』孟子荀卿列伝。「荀卿は趙の人。50歳で初めて斉に遊学した」(「15歳」の誤写、という説が有力)。稷下の学宮。斉の襄王(BC283〜265年)の頃、稷下の学者の中で「最も老いた師」で、3度、祭酒(学者の長)になった。斉の人に讒言されて、楚へ。宰相の春申君が蘭陵(山東の南)の令にした。誰かが春申君に「湯王は70里、文王は100里の地から天下を取った。荀卿は賢者です。100里の地を与えれば、あなたに危ない」と言い、春申君は荀卿を辞めさせた。荀卿は趙へ行き、春申君が後悔して呼び戻し、また蘭陵の令になった。BC238年、春申君が殺されて、免職。蘭陵に住んで、著述して、死んだ。
『荀子』32篇(漢の劉向が322篇から重複を除いて32篇に)。唐の楊倞が注をつけて、20巻に組み直した。
性悪。「人の性は悪なり。その善なる者は偽なり」。「偽」は「人が為す」。生まれつき、利を好み、耳目の欲があり、放っておけば争って、乱れる。だから、師と法を立て、礼と義を教える。「陶工が粘土から器を作るように、聖人が人の性から善を作る」。孟子への反論。「孟子は言う、人が学ぶのは、その性が善だからだ、と。私は言う、それは違う。人の性を知らず、性と偽の区別を見ていない」。
礼。人には欲があり、欲には限りがなく、物には限りがある。争いになる。先王が礼を作って、「分(身分と分け前)」を定めた。礼は、天から降りたものでも、心の中にあるものでもなく、聖人が作った制度。だから、学ぶ。「礼は、人の道の極まりである」。
天。「天行に常あり。堯のために存せず、桀のために亡びず」。星が落ちても、木が鳴っても、怪しむに足りない。日食があって、太鼓を打ち、旱で雨乞いをし、占って事を決めるのは、「文(かざり)」であって、神に通じるからではない。「君子は文と為し、百姓は神と為す。文と為せば吉、神と為せば凶」。「天を大なりとして思うは、物を畜えて制するに孰若ぞ。……天を制して用いる」。
正名。名は、約束(約定俗成)で決まる。実に対応する名を、王が定める。名が乱れると、議論が乱れ、政治が乱れる。公孫竜と恵施の「白馬非馬」を批判した。
学。「学は以て已むべからず。青はこれを藍より取りて藍より青く、氷は水これを為して水より寒し」。「積土して山と成れば、風雨ここに興る。……騏驥も一躍にては十歩なる能わず。駑馬も十駕すれば、功は舎てざるに在り」。
弟子。韓非(韓の公子。『韓非子』。人の性が悪なら、礼でなく法と刑で。秦の始皇帝が「この人に会えたら死んでもよい」と読んだ。秦へ行って、同門の李斯に讒言されて、獄で毒を飲まされた)。李斯(楚の上蔡の人。秦の丞相。郡県制、文字の統一、焚書を進言。始皇帝の死後、趙高と組んで胡亥を立て、趙高に腰斬にされた。刑場で息子に「もう一度、お前と黄色い犬を連れて上蔡の東の門を出て、兎を追いたかった」)。
評価。漢の儒教は荀子の系統(経学、礼学)。しかし唐の韓愈が「大醇にして小疵」、宋の程頤が「性悪の一言で、大本を失った」、朱熹が「荀子の思想は申不害と韓非に近い」。四書に『孟子』が入り、『荀子』は入らなかった。清の考証学(銭大昕、汪中)が読み直し、20世紀の中国が「唯物論者」「無神論者」として教科書に載せた。日本の徂徠は荀子を重んじた。
蘭陵(いまの山東省蘭陵県)に、荀子の墓と伝えるものがある。