人物

荀子

Xunzi
BC313年頃 – BC238年頃(享年75・推定)
戦国時代重要度 5

概要

趙の人。50歳で斉の稷下に遊学し、3度祭酒。讒言で楚へ。春申君が蘭陵の令にした。春申君が殺されて、免職、蘭陵で死んだ。「性は悪」。「学は止むべからず」(勧学篇)。「青は藍より出でて藍より青し」。「天行は常あり。堯のために存せず、桀のために亡びず」。礼を作った聖人と、礼を学ぶ人間。弟子の韓非と李斯が秦を作り、秦が儒者を埋めた。

関わったできごと(1)

荀子と稷下の学BC260年頃 · 祭酒

本文

荀子は、名を況といい、中国の戦国時代の末に、北の国、趙に生まれた。尊んで荀卿と呼ばれ、漢の時代には、皇帝の名の字を避けて孫卿とも書かれた。生まれた年も死んだ年も確かではなく、紀元前313年ごろの生まれ、紀元前238年ごろの死とする説はその一つにすぎない。孔子の死から百年あまり、孟子の活躍から一世代ほどあとの人で、七つの大国が争い、やがて秦が天下を一つにまとめる、その直前の時代を生きた。

荀子の肖像
荀子の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

司馬遷の『史記』は、荀子が50歳で初めて東の大国、斉に遊学したと書く。だが、そうだとすると生涯が長くなりすぎるので、「十五歳」を写し誤ったものだとする説も有力である。斉の都の臨淄には、稷門という城門のそばに、王が諸国の学者を招いて住まわせ、自由に議論させる学問の場があった(荀子と稷下の学)。荀子はここで学び、やがて最も年長の師として尊ばれ、学者たちの長である祭酒に三度選ばれたという。

荀子は、斉だけにとどまらなかった。西の秦を訪れ、王や宰相と問答したことが、彼の書物に記されている。荀子は秦の国を見て、民は素朴で役人は勤勉、朝廷には滞った仕事が無く、まことによく治まった国だと感嘆した。だが同時に、この国には儒者がいない、それが秦の欠けたところだ、とも述べた。礼と徳ではなく、法と賞罰で動く国の強さと危うさを、荀子は早くから見抜いていた。故郷の趙では、王の前で将軍と兵法を論じ、戦に勝つ根本は兵の技ではなく民の心をつかむことにある、と説いた。

荀子(『至聖先賢半身像』)
荀子(『至聖先賢半身像』)Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

やがて斉の人に悪く言われた荀子は、南の大国、楚へ移った。楚の宰相、春申君は彼を重んじ、蘭陵(いまの山東省の南部)の長官に任じた。ある人が、昔の聖王は小さな土地から天下を取った、賢者に百里の土地を与えるのは危ない、と春申君に吹き込むと、春申君は荀子を退けた。荀子は趙へ去ったが、春申君は思い直して彼を呼び戻し、再び蘭陵の長官にした。紀元前238年、春申君が政争で殺されると、荀子も職を失った。彼はそのまま蘭陵に住み、弟子を教え、書物をまとめて、そこで生涯を終えた。

荀子の名を何より有名にしたのは、人の性は悪である、という主張だった。人は生まれつき利益を好み、耳や目の欲を持ち、ねたみ憎む心がある。それに従うままにすれば、争いが起き、秩序は乱れる。人に善いところがあるのは「偽」によるのだ、と荀子は言う。ここでいう偽は、いつわりではなく、人が為すこと、すなわち後から身につける努力を意味する。曲がった木は、ため木を当てて蒸し、矯めて初めてまっすぐになる。なまくらな刃物は、砥石で研いで初めて鋭くなる。陶工が土をこねて器を作るように、聖人は人の性に手を加えて善を作り出すのだ、と。

篆書による『荀子』(清・鄧石如筆)
篆書による『荀子』(清・鄧石如筆)Wikimedia Commons Deng Shiru · Public domain

これは、人の性は善であり、その芽を育てればよいと説いた孟子への、正面からの反論だった。孟子は、人が学ぶのはその性が善だからだと言う。だがそれは、人の性を知らず、生まれつきのものと後から為すものとの区別を見ていないからだ、と荀子は批判した。そのうえで荀子は、道を行くふつうの人でも、学び続ければ古の聖王の禹のようになれる、とも言った。性が悪だという主張は、人間への絶望ではなく、学びと努力への強い信頼の裏返しだった。

人を善へと導くものとして、荀子が重んじたのが礼である。人には欲があり、欲には限りがないのに、物には限りがある。だから争いが起きる。古の王たちはそれを憎み、礼と義を定めて、人々の身分と分け前、すなわち「分」を定めた。礼は天から降りてきたものでも、生まれつき心の中にあるものでもなく、聖人が作った制度である。だからこそ、人は学ばなければならない。

『荀子』楊倞注、江戸時代の刊本
『荀子』楊倞注、江戸時代の刊本Wikimedia Commons 国立国会図書館 · Public Domain

荀子は、天についても醒めた目を持っていた。天の運行には常の決まりがある。聖王の堯のために続くのでもなく、暴君の桀のために滅ぶのでもない。星が落ち、木が鳴いても、怪しむには及ばない。日食に太鼓を打ち、日照りに雨乞いをし、占いで大事を決めるのは、神に通じるからではなく、政治の飾りとして行うのである。君子はそれを飾りと心得るが、民はそれを神の業と思う。飾りと思えば吉、神と思えば凶だ、と荀子は書いた。天を大いなるものとして仰ぎ慕うより、天の働きを見定めて人の役に立てるほうがよい、という主張もある。

荀子の書物『荀子』は、学問のすすめから始まる。学問はやめてはならない。青い染料は藍草から取るが、藍よりも青い。氷は水からできるが、水よりも冷たい。弟子が師をしのぐことを言う「出藍の誉れ」という言葉は、この一節から生まれた。土を積めば山となり、そこに風雨が起こる。名馬もひと跳びで十歩は行けないが、のろい馬も十日歩き続ければ追いつく。成果は、やめないことにある、と荀子は説いた。

その弟子の中から、中国の歴史を動かす二人が出た。一人は韓の公子の韓非である。韓非は、人の性が悪ならば、礼ではなく法と刑で人を治めるべきだと考え、のちの法家の思想をまとめた(『韓非子』)。秦の王はその書を読み、この人に会えたら死んでも悔いはないと言ったという。もう一人は楚の李斯で、秦に仕えて宰相にまで上り、天下の統一を支えた。だが韓非は、秦に来たところを、同門の李斯に陥れられ、獄中で毒を飲んで死んだ。李斯が秦の宰相になったと聞いた荀子は、そのために食事がのどを通らなかった、という話も伝わる。

『韓非子』に関わる図版:Hanfeizi or Han Feizi, Qing dynasty, Hunan Museum
『韓非子』Wikimedia Commons Huangdan2060 · Public domain

秦の始皇帝(始皇帝)は、李斯の進言で、医薬や占い、農業以外の書物を焼かせ、学者たちを罰した(焚書坑儒)。生き埋めにされたのが儒者だったのか、主に方術の士だったのかについては議論があるが、儒の師の弟子が、儒の学問を締めつける側に立ったことになる。

漢の時代になると、儒学は国の学問となった。漢の学者が伝えた経典の多くは、荀子の門を経て伝わったとする見方もある。だが唐の韓愈は、荀子をおおむね正しいが小さなきずがあると評し、宋の時代に儒学を組み立て直した朱熹(朱子)たちは、性悪の説を根本の誤りとして退けた。孟子の書が儒学の基本の書物、四書の一つとされたのに対し、荀子は長く日陰に置かれた。清の時代の学者たちが改めて読み直し、日本では江戸時代の荻生徂徠がその考えを重んじた。天を恐れず、人の努力と制度で秩序を作ろうとした荀子は、20世紀になって、古代中国の合理的な思想家として再び光を当てられている。

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