できごと

蔡倫の製紙法

Cai Lun's papermaking
AD105年
重要度 5
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民漢サカ族の王国ヒンドゥーの諸王国スーレーン家の王国クシャーナ朝サータヴァーハナ朝弥生カリンガ高句麗南匈奴アイヌYueban新羅シンハラAD105年洛陽
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD105年の版図を描いています(16勢力)。

概要

樹皮や布くずから安価な紙を作る方法をまとめた。600年後、タラス河畔で西へ渡る。

場所

洛陽
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省

関わった人(1)

蔡倫AD50年頃–AD121年 · 当人

本文

紀元105年、後漢の都洛陽で、宮廷の器物づくりを預かる役人が皇帝に新しい書写の材料を献上した。樹皮、麻のくず、ぼろ布、古くなった漁網。どこにでもある、捨てられるようなものを砕いて水に溶かし、薄く漉いて乾かした紙である。献上したのは宦官の蔡倫。皇帝はその技を褒め、人々はこの紙を「蔡侯紙」と呼んで用いるようになった、と5世紀に編まれた『後漢書』は伝える。

それまで、中国の人々が文字を書きつけていたのは、主に竹や木を細長く削った札(竹簡・木簡)だった。札を紐で綴って巻き、一冊の書物にする。丈夫で安かったが、とにかく重くかさばった。秦の始皇帝は、毎日決まった重さの竹簡の書類に目を通すまで休まなかったという話が『史記』にある。前漢の東方朔が皇帝に差し出した上奏文は3000枚の札に及び、二人がかりでようやく担いだとも伝えられる。司馬遷が書いた『史記』の完成の全巻を竹簡にすれば、荷車が要っただろう。

絹に書くこともできた。軽く、巻けば持ち運びもたやすい。だが絹は高価で、ふつうの役人や学生が気軽に使えるものではなかった。軽くて安く、大量に作れる材料が求められていた。

蔡倫は今の湖南省の生まれで、若くして宦官として宮廷に入った。和帝のもとで頭角を現し、宮廷の刀剣や器物の製作を監督する長官になった。彼の作らせた品はどれも出来が良く、後世の手本になったという。紙の献上は、この職人たちを束ねる立場から生まれたものだった。

ただ、蔡倫が紙をゼロから発明したわけではない。20世紀になって、中国各地の前漢時代の遺跡から、蔡倫より100年から200年以上も古い紙が次々に出土した。甘粛省の放馬灘からは、地図が描かれた紀元前2世紀頃の紙も見つかっている。麻の繊維を使った粗い紙は、蔡倫以前からすでに作られ、物を包むのにも使われていた。蔡倫の功績は、材料を広げ、作り方を整えて、書くための実用的な紙を安定して作れるようにしたことにあったと考えられている。

その後も紙はすぐに竹簡を追い出したわけではなかった。書写の材料として紙が竹簡や木簡に取って代わるのは、3世紀から4世紀にかけてのことである。3世紀の末、詩人左思が都を描いた作品を書くと、人々が争って書き写したため、洛陽の紙の値段が上がったという話が残っている。「洛陽の紙価を高める」という言葉はここから来た。紙は文学の流行を支え、役所の文書を軽くし、学問を広めた。

蔡倫自身の最期は不幸だった。和帝の死後、彼は宮廷の権力争いに巻き込まれた。かつて和帝の皇后の命で、ある妃を陥れる取り調べに関わったことを、のちの皇帝安帝にとがめられた。その妃は安帝の祖母にあたっていた。蔡倫は出頭を命じられると、身を清め、衣冠を整えて毒を仰いだと伝えられる。

紙の作り方は、ゆっくりと東西に広がった。東では朝鮮半島を経て日本に伝わり、『日本書紀』は610年に高句麗の僧曇徴が紙と墨の作り方を伝えたと記す。紙は仏典の書写を支え、やがて日本独自の和紙が生まれる。

西への道については、よく語られる話がある。751年、中央アジアのタラス河畔の戦いで唐の軍がアッバース朝の軍に敗れ、捕虜になった唐の兵の中にいた紙漉き職人が、サマルカンドで紙を作り始めた、というものである。ただ、この話はイスラーム側の後の記録によるもので、それ以前から中央アジアに紙が出回っていたことも分かっている。この戦いを境にイスラーム世界で紙づくりが本格化した、と受け取るのが穏当だろう。

8世紀の末には、新しい都バグダードに製紙場ができたとされる。役所の文書は羊皮紙やパピルスから紙に替わり、書物の写本がかつてない量で作られた。アッバース朝の学問の繁栄の陰には、安い紙があった。紙はさらにエジプトへ、北アフリカへ、そしてイスラーム支配下のイベリア半島へと伝わり、12世紀にはスペインで紙が作られていた。蔡倫の献上から、およそ千年を経ていた。

ヨーロッパでは、それまで書物は動物の皮をなめした羊皮紙に書かれていた。羊皮紙は丈夫だが高く、大きな本一冊に何十頭分、ときには百頭を超える子牛や羊の皮が要った。13世紀以降、イタリアなどで紙の生産が広がり、ぼろ布を原料にした紙が出回ると、書くことの値段は大きく下がった。

15世紀の半ば、グーテンベルクが活版印刷を始めたとき(グーテンベルクの活版印刷)、すでにヨーロッパには紙を作る工房が広がっていた。印刷機がいくら速く刷れても、刷る紙が羊皮紙だけなら、本はやはり一部の人のものにとどまっただろう。紙があったからこそ、印刷は知識を大衆に届ける技術になった。やがて紙の需要はぼろ布の供給を追い越し、19世紀には木材から紙を作る技術が生まれる(木材パルプの紙)。

グーテンベルクの活版印刷に関わる図版:Gutenberg press
グーテンベルクの活版印刷Wikimedia Commons International Printing Museum · CC0

紙は、あまりに身近で、発明品として意識されることが少ない。だが、文字を安く軽く大量に残せるようにしたという点で、蔡倫の名と結びついたこの技術は、文字そのものに次ぐほどの影響を人類の知に与えた。宮廷の一工房で整えられた方法が、千年かけて地球を半周し、本と新聞と紙幣の時代を準備したのである。

出典(1)

ジョゼフ・ニーダム(東畑精一、藪内清 監修) 『中国の科学と文明』第5巻(紙と印刷)

同じ時代のできごと

班超の西域経営AD91年ローマのインスラ(集合住宅)AD1〜2世紀モチェ文化100年モンテ・アルバンのサポテカAD1世紀九章算術AD100年頃ガンダーラの仏像AD1世紀扶南の港市AD100年テオティワカンの隆盛AD100年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD105年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →