できごと

『法の精神』

The Spirit of the Laws
AD1748年
重要度 4
『法の精神』に関わる図版:Montesquieu, De l'Esprit des loix (1st ed, 1748, vol 1, title page)
Montesquieu, De l'Esprit des loix (1st ed, 1748, vol 1, title page) Wikimedia Commons Smuconlaw . · Public domain

概要

立法・行政・司法を分けて互いに抑えさせる、という考えを体系にした。アメリカ合衆国憲法が、この本を最も多く引いている。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

関わった人(1)

モンテスキューAD1689年1月18日–AD1755年2月10日 · 著者

本文

モンテスキューは、1689年、フランス南西部のボルドーの近くで、法服貴族の家に生まれた。法服貴族とは、裁判所の官職を代々受け継いで貴族の身分を得た家柄をいう。モンテスキューも伯父からボルドーの高等法院の官職を継いだ。1721年、ペルシア人がパリを訪れて手紙を書き送るという形でフランスの社会と政治を風刺した『ペルシア人の手紙』を匿名で出し、評判をとった。

官職を売り払ったモンテスキューは、1728年からヨーロッパ各地を旅した。とくにイギリスには1年半あまり滞在し、議会を傍聴し、政治家たちと交わった。名誉革命と権利章典を経たイギリスでは、王の権力が議会と法によって縛られていた。この見聞が、のちの大著の大切な材料になる。

名誉革命と権利章典に関わる図版:William of Orange III and his Dutch army land in Brixham, 1688
名誉革命と権利章典Wikimedia Commons Johan Herman Isings · Public domain

『法の精神』は、およそ20年をかけて書かれ、1748年、スイスのジュネーヴで匿名で出版された。全31編にわたる大著である。モンテスキューが探ったのは、法と、それを取り巻くものとの関係だった。法は、その国の政体、気候、土地の広さ、宗教、商業、習俗、人口などに合っていなければならない。どこにでも通じる一つの正しい法があるのではなく、法と事情との関係の中に「法の精神」がある、と彼は考えた。

モンテスキューは、政体を三つに分けた。人民の全体または一部が主権を持つ共和政、一人が定まった法に従って治める君主政、一人が法も規則も無く自分の意志で治める専制である。そして、それぞれの政体を動かす原理を、共和政では徳、君主政では名誉、専制では恐怖とした。暑い国は専制に、寒い国は自由に向かいやすいという気候の議論は、今から見れば偏見を多く含んでいるが、政治を風土や社会の条件と結びつけて考えようとした試みだった。

『法の精神の擁護』
『法の精神の擁護』Wikimedia Commons Public domain

いちばんよく知られているのが、第11編第6章のイギリスの国制を論じた部分である。

その前に、モンテスキューは自由とは何かを定義している。自由とは、何でも好きなことができることではなく、法が許すことをすべてなしうる権利である。そして政治的な自由は、権力が濫用されないところにしか無い。ところが、権力を持つ者は誰でもそれを濫用しがちで、限界に突き当たるまで進む、というのが経験の教えるところだ、と彼は書いた。人間を善いものとも悪いものとも決めつけず、権力の性質から制度を組み立てようとする、冷静な観察である。モンテスキューは、国家には法を作る権力、法を執行する権力、裁判をする権力の三つがあるとし、同じ人や同じ団体が二つ以上を握れば自由は失われる、と書いた。権力を濫用させないためには、権力が権力を抑えるように仕組みを整えなければならない、という。ただし、モンテスキュー自身は、三権の分立をそれほど整った体系として書いたわけではない。彼が描いたイギリスの姿も、実際の議会政治とはかなり違う理想化されたものだった。それを明確な原理に仕立てたのは、後の読者たちである。

モンテスキューの肖像
モンテスキューWikimedia Commons After Jacques-Antoine Dassier · Public domain

『法の精神』はたちまち評判になり、2年ほどの間に20あまりの版を重ねたという。一方で、宗教を社会の条件の一つとして扱ったことが教会の反発を招き、モンテスキューは弁明の書を出したが、1751年、教皇庁の禁書目録に加えられた。1755年、モンテスキューはパリで亡くなった。

この本は大西洋の向こうで最も熱心に読まれた。

同時代のフランスでは、ヴォルテールが気候の議論や史料の扱いを皮肉り、『百科全書』の編者たちは彼の業績をたたえた。モンテスキューは、王権を貴族や高等法院のような中間の団体が抑える君主政を理想としていたとも読め、貴族の特権を守る書だという批判も受けた。アメリカ独立の時代の政治文書の引用を数えた研究によれば、聖書の次に多く引かれた著者がモンテスキューだった。1787年のアメリカ合衆国憲法の制定をめぐる論争で、マディソンは「名高いモンテスキュー」を引いて、権力を分けて互いに抑えさせる仕組みを擁護した。立法の議会、執行の大統領、裁判の最高裁判所を分け、互いに牽制させる合衆国憲法の形は、その結実である。

『百科全書』に関わる図版:Encyclopedie de D'Alembert et Diderot - Premiere Page - ENC 1-NA5
『百科全書』Wikimedia Commons Long List of Contributors to the Encyclopédie · Public domain

ロシアのエカチェリーナ2世は、新しい法典を作るための訓令に『法の精神』の文章を大量に取り込んだ。フランス革命の人権宣言は、権力の分立が定められていない社会は憲法を持たない、と述べている。明治の日本でも、1870年代に『万法精理』の名で訳された。三権分立という言葉は、今では日本国憲法を学ぶ中学生の教科書にも載っている。

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