できごと

プラトンのアカデメイア

Plato's Academy
BC387年
重要度 5
古シベリアの狩猟採集民サハラの牧畜遊牧民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民アケメネス朝ペルシア西アフリカの穀作農民Celltic Hallsatt cultureスキタイサーミガリア諸部族カルタゴゲルマンの諸部族ケルト系の人びとPlain-Pottery cultureクシュ王国Brushed Pottery cultureBell-shaped burials cultureギリシア諸ポリスギリシアの植民市Milograd cultureギリシア諸ポリスEastern Masurian cultureブレンミュエスPomeranian cultureBC387年アテナイ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC387年の版図を描いています(23勢力)。

概要

900年続いた学園。アリストテレスもここで学ぶ。「アカデミー」の語源になる。

場所

アテナイ
37.98°N 23.73°E · ギリシア・アッティカ

関わった人(2)

プラトンBC427年頃–BC347年 · 創設アリストテレスBC384年–BC322年 · 学んだ

本文

プラトンは紀元前427年ごろ、アテナイの名門の家に生まれた。若い頃は政治家を志したが、師と仰いだソクラテスが紀元前399年に民衆裁判で死刑になったことで(ソクラテスの死)、アテナイの政治に絶望したとされる。その後プラトンは各地を旅した。南イタリアでは、数学を重んじるピュタゴラス派の人々と交わり、シチリアのシュラクサイでは僭主ディオニュシオス1世の宮廷を訪れた。僭主の怒りを買って奴隷として売られかけ、知人に身請けされたという話も伝わるが、確かではない。

アテナイに戻ったプラトンは、紀元前387年ごろ、町の北西の城壁の外、英雄アカデモスを祀る森の中の体育場の近くに学園を開いた。場所の名をとってアカデメイアと呼ばれ、これが「アカデミー」という語の出所になる。プラトンは近くに小さな土地を持ち、そこを仲間と学ぶ場にしたらしい。授業料はとらなかったと伝えられる。

アテナイの地図。北西にアカデメイアがある。
アテナイの地図。北西にアカデメイアがある。Wikimedia Commons Napoleon Vier · Public domain

入口に「幾何学を知らぬ者は入るべからず」と掲げられていたという話は有名である。ただし、これを伝える記録は学園の開設から数百年以上も後のもので、確かではない。それでも、アカデメイアが数学を重んじたことは確かだ。天文学者エウドクソスや、立体の研究で知られるテアイテトスら、当時の第一級の数学者が学園に関わっている。プラトンは、目に見えて移ろうものの奥に、変わらない「イデア」があると考えた。数学は、その世界に心を向ける訓練だった。

学園でしていたことは、講義より対話だったとされる。問いを立て、答えを吟味し、矛盾を突き、考えを練り直す。プラトンの書いたものが、ソクラテスと誰かの問答の形をした対話篇になっているのも、その方法の反映だろう。学ぶ者の中には女性もいて、男の服を着て通ったと後世の伝記は伝えている。

プラトン時代のアカデメイアを描いたモザイク画。
プラトン時代のアカデメイアを描いたモザイク画。Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

プラトンが「善について」という公開の講義をしたとき、富や健康や幸福の話を期待して集まった聴衆は、数学や天文学の話ばかりが続くのに失望して帰ってしまった、という逸話が、アリストテレスの弟子によって書き残されている。学園の学びは、世間の期待する処世の知恵とは違うものだった。

プラトンは学園での教育のかたわら、二度にわたってシュラクサイに招かれ、若い僭主ディオニュシオス2世を、哲学によって治める王に育てようとした。哲学者が王となるか、王が哲学をするまで、国の不幸はやまない、というのが彼の持論だった。だが試みは失敗し、プラトンは身の危険を感じながらアテナイに戻っている。

『アテナイの学堂』(ラファエロ画、1509〜1510年、ヴァチカン宮殿)
『アテナイの学堂』(ラファエロ画、1509〜1510年、ヴァチカン宮殿)Wikimedia Commons Raphael · Public domain

紀元前367年、北ギリシアから17歳の若者が学園にやってきた。アリストテレスである。アリストテレスは師が死ぬまでの20年をここで過ごした。そして、イデアが個々のものから離れて存在するという師の考えを批判し、目の前にある個々のものの観察から出発する独自の哲学を築いた。プラトンの死後、学園は甥のスペウシッポスが継ぎ、アリストテレスはアテナイを離れる。後に彼は自分の学園リュケイオンを開き、二つの学園は並び立った。

アカデメイアは、プラトンの死後も学頭を代々選んで続いた。紀元前3世紀以降は、確かな知識は得られないとして判断を控える懐疑の立場が強まり、ストア派やエピクロス派と激しく論争した。紀元前86年、ローマの将軍スッラがアテナイを包囲した際、攻城兵器を作るためにアカデメイアの森の木を切り倒したと伝えられる。この頃を境に、プラトンが開いた学園としての連続は途切れたとみる研究者が多い。

ユスティニアヌス1世。529年、彼の命でアカデメイアは国家の管理下に置かれ、事実上閉鎖された
ユスティニアヌス1世。529年、彼の命でアカデメイアは国家の管理下に置かれ、事実上閉鎖されたWikimedia Commons Meister von San Vitale in Ravenna · Public domain

後の時代、プラトンの哲学は新プラトン主義として大きく息を吹き返した(プロティノスの新プラトン主義)。5世紀のアテナイでは、プロクロスらが率いるプラトン派の学校が栄え、自分たちをプラトンの学園の後継者とみなした。だがこの学校は、もとのアカデメイアの森ではなく町の中の邸宅で開かれていた。529年、ユスティニアヌス1世が異教徒に教えることを禁じると、この学校も閉じられ、教師たちの一部はペルシアの王のもとへ身を寄せた(アテナイのアカデメイア閉鎖)。

開設から閉鎖までを数えれば900年あまりになる。そのすべてが一つの組織として続いたわけではないが、プラトンの名のもとに人が集まり、考え続けた伝統としては、ほかにほとんど例のない長さだった。

プラトンの胸像(ピオ・クレメンティーノ美術館)
プラトンWikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

プラトンの著作は、古代の哲学者としては珍しく、ほぼすべてが今に伝わっている。30あまりの対話篇の中には、正義とは何か、魂は不死か、恋とは何か、といった問いが、結論を急がずに論じられている。20世紀のイギリスの哲学者ホワイトヘッドは、ヨーロッパの哲学の伝統はプラトンへの一連の脚注から成る、と述べた。アカデメイアで始まった問い方は、いまも大学の「アカデミック」という言葉の中に生きている。アカデメイアの跡は20世紀に発掘され、今はアテネ市内の公園の一角になっている。

動画(1)

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