概要
朱熹が四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)を選び、注をつけて、五経より先に読む基本の書とした。理(世界の筋道)と気(材料)。「格物致知」——物に至って理を窮める。「性即理」。仏教と道教に対抗して、儒教に形而上学を与えた。生前は「偽学」として禁じられ、死後に正統になり、1313年から科挙の答案の基準になった。日本の江戸、朝鮮、ベトナムの官学。
場所
30.25°N 120.17°E · 中国・浙江省
関わった人(1)
朱熹(朱子)AD1130年–AD1200年 · 体系にした本文
仏教が中国に来て700年。唐の時代、儒教は科挙の教養で、葬祭の礼で、官僚の建前だったが、「世界とは何か」「心とは何か」を語る言葉を持っていなかった。それは仏教(華厳、天台、禅)と道教が持っていた。
北宋。周敦頤『太極図説』(無極而太極)。張載『西銘』(「民は吾が同胞、物は吾が与なり」)と気の哲学。程顥・程頤の兄弟(「理」を中心に据えた)。邵雍。「北宋五子」。
朱熹(1130〜1200年)。福建。19歳で進士(当時としては非常に若い)。しかし生涯の大半、地方の小さな官職と、名目だけの祠禄官(道観の管理を名目にした年金)で暮らし、講学と著述に費やした。実務に就いたのは9年ほど。
事業。(1)四書の確定。『礼記』の中の「大学」と「中庸」を独立させ、『論語』『孟子』と並べて「四書」とした。それぞれに注をつけた(『四書章句集注』。40年、死ぬ3日前まで直し続けた)。読む順序を定めた。「まず『大学』で規模を定め、次に『論語』で根本を立て、次に『孟子』で発越を見、次に『中庸』で古人の微妙な処を求める」。五経(詩・書・易・礼・春秋)より、四書を先に。
(2)理気の哲学。「理」は、あらゆる物と事に、あらかじめ備わっている、あるべき筋道。「気」は、それが形をとるための材料。理は一つで、万物に分かれて宿る(「理一分殊」。月が千の川に映るように)。人の本性(性)は、理そのもの(「性即理」)。しかし、気の濁りが、それを曇らせる。だから、学ぶ。
(3)方法。『大学』の「格物致知」を、「物に格(いた)りて、その理を窮める」と読んだ。一つ一つの物と事を調べて、その理を積み重ねていくと、ある日、「豁然貫通」——すっと全体が見える。同時に、「居敬」——心を一つに集めて、乱さない。読書と、静坐と、日常の作法。
(4)教育。白鹿洞書院を再興し、学規を定めた。書院が、科挙のための予備校でなく、人を作る場になった。
(5)社会。社倉法(村ごとに穀物を蓄えて、飢饉に備え、春に貸して秋に利息をつけて返させる)。家礼(冠婚葬祭の手引き。士大夫だけでなく庶民が使える形に整えた。東アジアの葬儀の作法の元になった)。
弾圧。彼の学問は、生前、「偽学」として禁じられた(1196年、慶元の党禁)。官職を追われ、弟子は科挙を受けられず、彼の書は禁書になった。1200年、死んだ。葬儀に集まることも禁じられ、それでも千人が来た。
正統。1241年、南宋の理宗が、彼を孔子廟に祀った。1313年、元が科挙を復活させたとき、答案の基準を『四書章句集注』と定めた。以後、1905年に科挙が廃止されるまで、600年、中国で試験を受ける者は、朱熹の注釈で四書を読んだ。
広がり。高麗末〜朝鮮(李退渓、李栗谷。朝鮮は、中国以上に朱子学を徹底した)。日本(藤原惺窩と林羅山。江戸幕府の官学。ただし、伊藤仁斎と荻生徂徠が批判し、水戸学と国学が別の道を作った)。ベトナム(黎朝)。
批判。明の王陽明が「理は外にない、心にある」と裏返した。清の考証学が「朱熹の注は、経書の原意を歪めている」と、文献の実証で攻めた(戴震)。20世紀、「封建道徳の元凶」として攻撃され(特に文革で)、21世紀に、また読まれている。