朱子学の成立
概要
朱熹が四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)を選び、注をつけて、五経より先に読む基本の書とした。理(世界の筋道)と気(材料)。「格物致知」——物に至って理を窮める。「性即理」。仏教と道教に対抗して、儒教に形而上学を与えた。生前は「偽学」として禁じられ、死後に正統になり、1313年から科挙の答案の基準になった。日本の江戸、朝鮮、ベトナムの官学。
場所
24.51°N 117.65°E · 中国・福建省
関わった人(1)
朱熹(朱子)AD1130年–AD1200年 · 体系にした本文
仏教が中国に伝わって1000年近く、唐の時代までに、知識人の心をとらえる深い思想を語ってきたのは、もっぱら仏教と道教だった。儒教は、科挙の受験科目であり、冠婚葬祭の作法であり、官僚の守るべき建前ではあったが、世界はなぜこうあるのか、心とは何か、どうすれば迷いから抜け出せるのか、という問いに答える言葉を持っていなかった。禅の僧が一言で悟りを語り、華厳の学僧が宇宙の成り立ちを壮大に説くのに、儒者は古典の字句の注釈を積み重ねるばかりだった。
北宋の時代、科挙で登用された士大夫たちの中から、この空白を儒教の側から埋めようとする人々が現れた(宋の科挙と士大夫)。周敦頤は『太極図説』で、宇宙が根源の太極から陰陽と五行を経て万物を生む筋道を描いた。張載は、天地のすべては「気」の集まりと散らばりだと考え、民は私の同胞であり、物は私の仲間である、と説いた。程顥と程頤の兄弟は、あらゆる物事に備わる「理」を思想の中心に据えた。のちに「北宋五子」と呼ばれるこうした先人の議論は、ばらばらに残されていた。

それを一つの体系にまとめ上げたのが、南宋の朱熹(朱子)(1130〜1200年)である。福建の地方官の家に生まれ、18歳で科挙の最終試験に合格した。異例の若さだった。しかし実際に官職に就いて働いたのは生涯を通じて10年に満たず、多くの歳月を、道観の管理を名目に俸給を受ける閑職に身を置きながら、講義と著述に費やした。各地から弟子が集まり、彼との問答の記録は、のちに140巻の『朱子語類』にまとめられる。
最大の仕事は「四書」の確定だった。儀礼の書『礼記』の中の二篇「大学」と「中庸」を独立させ、孔子の言行録『論語』、孟子の言葉を集めた『孟子』と並べて四書とし、それぞれに注を付けた。『四書章句集注』である。彼はこの注を40年にわたって直し続け、死の3日前まで筆を入れていたと伝えられる。1190年、地方官として赴いた漳州で、彼は四書を一組の本として刊行した。読む順序も定めた。まず『大学』で学問の全体の枠組みをつかみ、次に『論語』で根本を立て、続いて『孟子』で思想の広がりを見て、最後に『中庸』で古人の奥深い境地を求める。漢代以来の正典だった五経(『詩経』『書経』『易経』『礼記』『春秋』)よりも先に、まず四書を読め、というのが彼の教えだった。

その注釈の土台にあるのが、理と気の哲学である。理とは、あらゆる物や事にあらかじめ備わる、そうあるべき筋道であり、気とは、それが形を取るための材料である。理はもともと一つだが、万物それぞれに分かれて宿る。一つの月が千の川面に映るように、というたとえで説明された(理一分殊)。人の本性も理そのものであり(性即理)、本来は善である。ところが、人が持って生まれた気には清濁があり、濁りが本性を曇らせて、欲や悪が生じる。だから人は学ばねばならない。
学び方として彼が重んじたのが、『大学』にある「格物致知」の一句だった。彼はこれを、物に至ってその理を窮め、知を極めることだと読んだ。身近な一つ一つの物事について理を調べ、積み重ねていけば、ある日からりと全体が見通せる(豁然貫通)。同時に、心を一つに集中させて散らさない「居敬」を求めた。読書、静坐、日々の立ち居振る舞いの作法が、すべて修養の一部になった。

教育と社会の仕組みにも手を入れた。廬山のふもとに荒れていた白鹿洞書院を再興して学規を定め、書院を科挙の予備校ではなく人格を磨く学びの場として位置づけた。飢饉に備えて村ごとに穀物を蓄え、春に貸して秋に返させる「社倉」を広め、冠婚葬祭の手順を士大夫だけでなく庶民も使えるようにまとめた『家礼』を著した。『家礼』は、のちに朝鮮をはじめ東アジアの葬儀や祖先祭祀の作法の手本になる。
だが生前の彼は、権力に疎まれた。宮廷の政争の中で、1196年、彼の学問は「偽学」とされて禁じられた(慶元の党禁)。官職を奪われ、門人は科挙の受験を妨げられ、著書は禁書となった。1200年に彼が死んだとき、葬儀に集まることさえ警戒されたが、それでも多くの門人や学者が弔いに訪れたという。
名誉の回復は早かった。禁令は数年で緩み、1241年、南宋の理宗は朱熹を孔子廟に祀った。決定的だったのは元の時代である。1313年、元の朝廷は中断していた科挙を再開するにあたり、四書を出題の中心とし、解釈の基準を朱熹の注と定めた(科挙の始まり)。以後、明・清を通じて1905年に科挙が廃止されるまで、600年近く、中国で官僚を目指す者は皆、朱熹の注によって四書を読んだ。漢代に儒学の官学化で官学となった儒教は、ここで朱熹の解釈によって作り直されたのである。
その影響は国境を越えた。高麗末に伝わった朱子学は、朝鮮王朝の国家の理念となり、李滉(退渓)や李珥(栗谷)が理と気をめぐって精緻な議論を重ね、中国以上に徹底して社会の隅々にまで行き渡った。日本では江戸時代、藤原惺窩とその弟子の林羅山が広め、幕府の学問所の正統となった。ベトナムの黎朝でも官学とされた。

もちろん批判もあった。明の王陽明は、物事の外に理を求める朱熹の格物の説に行き詰まり、理は外ではなく自分の心にあると説いた(王陽明の龍場の悟り)。清の考証学者たちは、厳密な文献の検証によって、朱熹の注が古典の本来の意味をゆがめていると論じた。日本でも伊藤仁斎や荻生徂徠が朱子学を退けて孔子と孟子の原典に直接向かおうとした。20世紀の中国では、朱子学は身分秩序を押しつけた封建道徳の元凶として激しく攻撃された。それでも、儒教に宇宙論と心の哲学を与え、東アジアの数百年の教育と国家の骨組みを形づくった思想として、朱熹の仕事を抜きにこの地域の歴史を語ることはできない。