『ヨーロッパ覇権以前』で読む13世紀

概要
1250年から1350年まで、世界はすでに一つにつながっていた。ただし中心はヨーロッパではなかった。
この物語について
近代の世界は、いつ、どこから一つにつながりはじめたのか。よく語られるのは、1500年ごろのヨーロッパから、という答えである。大航海によってヨーロッパが世界の海を結び、その中心に立ったところから、今につながる世界の仕組みが始まった、と。『ヨーロッパ覇権以前』(ジャネット・L・アブー=ルゴド、1989年、日本語版2001年)は、その250年前に、すでにもう一つの世界システムがあった、と主張する。ただし、その中心はヨーロッパではなかった。
著者はアメリカの社会学者で、都市の研究、とくにカイロという都市の千年の歴史を描いた研究で知られていた。本の背景には、歴史社会学者ウォーラーステインの「近代世界システム」の理論がある。ウォーラーステインは、16世紀のヨーロッパを中心に、中心と周辺が分業する一つの世界経済ができあがったと論じた。アブー=ルゴドはそれに対して、ヨーロッパ中心の世界システムの前に、中心を持たない、もっと古い世界システムがあったのではないか、と問うた。
本が描くのは、1250年から1350年までの百年である。その世界は、八つの重なり合う交易の圏が、鎖のようにつながってできていた、と本は言う。西の端には、北フランスのシャンパーニュの大市と、毛織物の町ブリュージュやゲントがあった。イタリアのジェノヴァとヴェネツィア共和国の商人が、その品を地中海へ運ぶ。地中海の東では、道は二つに分かれる。一つはエジプトのカイロから紅海を下る道で、もう一つはバグダードからペルシア湾へ出る道である。さらに北には、黒海から中央アジアの草原を横切って中国へ向かう陸の道があった。インド洋では、アラビア海とベンガル湾、そしてマラッカ海峡が、それぞれの圏をなしていた。東の端には、南シナ海に開いた中国の港、泉州と杭州があった。
この仕組みには、一つの中心が無い、と本は言う。どの地域も、他を支配せずに参加していた。商人たちは、それぞれの圏の中で品物を運び、隣の圏の商人に渡した。ヴェネツィアの商人がインドまで行くことはまれで、インドの商人が北フランスまで来ることもなかった。それでも、北フランスの毛織物と中国の絹と、インドの胡椒と綿布が、鎖の輪を順々に渡って、世界の端から端まで動いていた。そしてヨーロッパは、その鎖のいちばん端の、いちばん貧しい部分だった。ヨーロッパが売ることのできたのは、毛織物と、わずかな金属くらいのものだった。
鎖を一つにつないだのは、モンゴル帝国の拡大である。チンギス・ハンとその子孫が、中国から東ヨーロッパまでの草原を一つの支配のもとにまとめると、陸の道の安全が保たれ、商人や使節や宣教師が東西を行き来できるようになった。ヴェネツィアの商人の家に生まれたマルコ・ポーロは、この道を通って中国へ行き、元の宮廷に仕えたと語った。帰国後、彼の語った話は『東方見聞録』としてまとめられた。その記述のどこまでが本人の見聞かについては、昔から議論がある。

モンゴルは、つなぐと同時に壊しもした。1258年、モンゴル軍はアッバース朝の都を攻め落とした。バグダードの陥落で、ペルシア湾へ向かう道は大きな打撃を受けた。その分、重みを増したのがカイロと紅海の道である。エジプトとシリアを治めたマムルーク朝は、モンゴルの西への進撃を食い止め、インド洋の香辛料を地中海へ送る道を押さえた。カイロは、10世紀のアズハル学院の創設以来、イスラーム世界の学問の中心でもあった。
インド洋の側では、季節風が交易のリズムを決めていた。夏と冬で向きの変わる風に乗って、船はアラビアとインドと東アフリカのあいだを行き来した。アフリカの東岸ではキルワの町が、内陸の金を積み出す港として栄えた。キルワとインド洋交易である。インドの西岸のマラバールの港、のちにカリカットと呼ばれる町の一帯は、胡椒の集まる要だった。マラッカ海峡は、インド洋と南シナ海を結ぶ喉もとで、かつてはシュリーヴィジャヤがそこを押さえていた。

東の端の中国は、この世界システムの中で最も豊かで、最も多くの物を作り出す地域だった。南宋から元の時代、泉州には世界中の船が集まり、ペルシアやアラブのムスリム商人が多く住んで、モスクを建てた。泉州の海上交易である。その港は、マルコ・ポーロも、のちのイブン・バットゥータも、世界最大級の港として書き残している。
この世界システムを、一人で歩き通した人がいる。1304年にモロッコのタンジールに生まれたイブン・バットゥータは、21歳でメッカへの巡礼に出て、そのまま30年近く旅を続けた。東アフリカのキルワ、インドのデリー、モルディブ、そして中国の泉州まで。イブン・バットゥータの旅の記録は、イスラームの言葉と法と信仰を共にする人びとの網の目が、当時どれほど広く世界を覆っていたかを伝えている。本はマルコ・ポーロとイブン・バットゥータを、この世界を逆向きに歩いた二人の証人として使う。

では、この世界システムに何が起きたのか。本の答えは、「東が崩れた」になる。14世紀の半ば、モンゴルの諸政権が分裂し、草原の道の安全が失われた。そして、同じ交易の道を伝って、黒死病が広がった。疫病は、中国から中東、地中海、ヨーロッパまで、鎖の輪の一つ一つの人口を削った。商人の数も、町の数も減った。
14世紀の後半、モンゴルを北へ追った明は、やがて民間の海外交易を厳しく制限した。15世紀の初めの鄭和の南海遠征は、インド洋の各地に大艦隊を送ったが、それは国家の威信を示す航海で、しばらくすると打ち切られた。海峡では15世紀の初めにマラッカの王国が生まれ、交易そのものは続いた。マラッカ王国の成立である。だが、中国が自ら海に出る時代は終わった。本は、東が自分から退いたことを、結論の一つとして重く見る。

それから半世紀あまりのち、ポルトガルの船がアフリカを回ってインド洋に現れた。1498年のカリカット到着で、ヴァスコ・ダ・ガマはインドの西岸に着いた。ヨーロッパは、すでに出来上がっていたインド洋の交易の網の中へ、後から、大砲を積んだ船で入ってきたのである。西が勝ったのではなく、東が退いた隙間にヨーロッパが入った、というのが本の筋である。
本の結論は、歴史に必然は無い、ということにある。1300年の時点で、次に世界の中心になるのがヨーロッパだと予想できた人はいなかっただろう。ヨーロッパの台頭は、ヨーロッパの内側に最初から備わっていた優れた性質の結果ではなく、別の場所で起きた崩壊と、偶然の組み合わせの結果だった、と本は言う。
本は、ヨーロッパ中心の世界史を問い直す流れの中で大きな役割を果たした。その後、中国やアジアの側から世界経済を見直す研究が続いた。一方で批判もある。八つの圏という区切り方は著者の作った模型で、史料はそれを裏づけるには十分でない。モンゴル以前から、インド洋の交易は何世紀も続いていた。それに比べて、13世紀を特別な一つのシステムと呼ぶ根拠は弱い、という指摘もある。
この物語は、本が描いた13世紀の世界を、このデータベースの側から並べ直したものである。本文は写していない。草原の道のはるかな前史として、それより何百年も前にユーラシアを結んでいたソグド商人のネットワークも並べてある。世界がつながる形は、一つではない。中心のない網の目としてつながっていた世界が、かつてあった。その記憶は、いま世界の重心がふたたび東へ動きつつあるなかで、新しい意味を持ちはじめている。
動画(1)
この物語が起きた場所
筋(20)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- ソグド商人のネットワークできごと400年草原の道の、はるか前史サマルカンドを中心に、中国から黒海まで隊商の網を張った人びと。ソグド語が絹の道の共通語になり、仏教もマニ教もこの商人たちに運ばれた。サマルカンド
- シュリーヴィジャヤ国AD7世紀半ば – AD13世紀後半(衰退と消滅には諸説ある)マラッカ海峡を握った港市国家。インドと中国を結ぶ船から通行料を取り、大乗仏教の学問の中心でもあった。義浄がここでサンスクリットを学んでいる。
- ヴェネツィア共和国国AD697年(最初のドージェの選出。伝承) – AD1797年(ナポレオンによる解体)ヨーロッパ側の窓口潟の上に建った都市が、1100年続いた。東ローマの属領から始まり、第四回十字軍で帝都を略奪し、地中海東部の海を握った。ナポレオンが一言で終わらせる。
- アズハル学院の創設できごとAD972年カイロと紅海の道現存する最古級の大学。1000年以上、イスラム世界の学問の中心であり続ける。カイロ
- 泉州の海上交易できごと1000年東の端。ムスリム商人が数万人住んだ中国の港マルコ・ポーロが世界最大の港の一つと書いた町。ムスリムの商人が数万人住み、モスクとヒンドゥー寺院とマニ教の像が並んでいた。泉州
- シャンパーニュの大市できごと1150年ヨーロッパのサブシステムの心臓年に六度、北の毛織物と南の香辛料がこの平野で出会った。伯爵が道中の安全と裁判を保証し、そこで為替と信用取引の作法が育つ。トロワ

- モンゴル帝国の拡大できごと1206年草原の道が開いたことで、八つの圏が一つに鎖でつながった史上最大の陸上帝国。ユーラシアが一つの交通圏になり、人も物も疫病も東西を往復する。カラコルム
- モンゴル帝国国AD1206年(クリルタイ) – (続く)1206年にモンゴル高原の諸部が一人の下にまとまり、90年で太平洋から黒海まで届いた。地続きの帝国としては史上最大になる。
- マムルーク朝国AD1250年 – AD1517年(オスマンによる征服)カイロと紅海を押さえた奴隷として買われ、兵として育てられた者たちの国。血縁ではなく実力で次のスルタンが決まる。モンゴルを止め、十字軍を追い出し、香辛料の道を握って270年続いた。
- マルコ・ポーロ人物AD1254年 – AD1324年東方への旅を語り、ヨーロッパにアジアの富を印象づけた。コロンブスはこの本を携えて出航する。
- バグダードの陥落できごとAD1258年モンゴル軍がアッバース朝を滅ぼした。イスラム世界の学問の中心が失われる。バグダード

- 元国AD1271年 – AD1368年草原の側が中国を丸ごと治めた。モンゴル高原と中国が一つの国になり、大都(北京)が都になる。
- 『東方見聞録』できごとAD1298年(獄中での口述)逆向きに歩いた記録ジェノヴァの獄中で、同房の物語作家に旅を語った。ヨーロッパのアジア観を数百年にわたって形づくる。ジェノヴァ

- キルワとインド洋交易できごとAD1300年頃インド洋の南の端東アフリカの港市がアラビア・インド・中国と結ばれた。スワヒリ語はこの交易の中で育つ。キルワ
- イブン・バットゥータ人物AD1304年2月24日 – AD1369年頃21歳で巡礼に出て、30年かけて12万kmを歩いた。インド・中国・マリまで行き、帰ってから口述で『大旅行記』を残す。マルコ・ポーロの三倍の距離になる。
- イブン・バットゥータの旅できごとAD1325年この世界システムを一人で歩き通した記録巡礼のつもりで出た旅が30年、12万kmになった。行く先々でイスラーム法官として職を得られたことが、この距離を可能にしている。タンジール

- 黒死病できごと1347年結論。鎖が交易路を通って人口を削ったヨーロッパの人口の3分の1が死んだ。働き手が減って農奴の立場が上がり、封建の仕組みが緩む。
- マラッカ王国の成立できごとAD1400年頃海峡海峡の細いところに港ができた。ここを通らないと東西の船は動けない。イスラムが東南アジアへ広がる入口にもなる。マラッカ
- 鄭和の南海遠征できごと1405年結論。東が自分から退いた七度の航海で数百隻の船団がアフリカ東岸まで達した。植民も征服もせず、朝貢の関係を結んで帰る。だが事業は打ち切られ、記録の多くも失われた。海は他者に委ねられる。南京
- カリカット到着できごとAD1498年5月20日インド洋の要。ヨーロッパはここへ後から来る数百年動いていたインド洋交易に、ヨーロッパの船が外から入ってきた。持参した贈り物は現地の基準では貧弱で、王の側は相手にしなかったと伝わる。カリカット
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
交易路とお金13件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。探検と発見6件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史6件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。イスラム世界5件を共有 / 一世紀でイベリアからインダスまで。学問を受け継ぎ、育て、そして西へ返した。草原の帝国4件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。『世界史』(マクニール)で読む歴史4件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。中国の王朝3件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。都市の歴史3件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史3件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。『交易の世界史』で読む物の流れ3件を共有 / シュメールの銅から現代のコンテナまで。人が物を遠くへ運ぶために、何をしてきたか。『歴史序説』で読む王朝の寿命3件を共有 / 14世紀の北アフリカで、社会には法則があると考えた人がいた。王朝はなぜ三代で衰えるのか。大航海時代2件を共有 / 海が壁ではなく道になった。二つの大陸が結ばれ、世界がひとつの市場になっていく。インドと仏教2件を共有 / 一人の王子が始めた問いが、アショーカ王に拾われ、玄奘に運ばれ、東アジアへ届くまで。感染症と人類2件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。誰が書き残したか2件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。『サピエンス全史』で読む歴史2件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『疫病と世界史』で読む歴史2件を共有 / 歴史を動かしたのは王でも思想でもなく、目に見えない微生物だった、と最初に言い切った本。『繁栄』で読む歴史2件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。『地中海』で読む歴史2件を共有 / 歴史には三つの速さがある。ほとんど動かない時間、ゆっくり動く時間、そして事件。捕虜収容所で書かれた本。『物質文明・経済・資本主義』で読む三つの層2件を共有 / 毎日の暮らし、市場での取引、そしてその上に乗る資本主義。ブローデルは経済を三層に分けた。海の歴史2件を共有 / 海は人と物と病と戦争を運び、人はその海を測り、守り、汚してきた。交通と旅の歴史2件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。武士の700年1件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。東ローマ千年1件を共有 / ローマの西半分が消えたあと、東半分は1000年続いた。その中身をローマの続きとして並べる。帝国と独立1件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。考えることの歴史1件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。コテンラジオで聞く歴史1件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。『銃・病原菌・鉄』で読む歴史1件を共有 / なぜ征服したのがスペイン人で、されたのがインカだったのか。ダイアモンドは答えを人ではなく大陸の形に求めた。『暴力の人類史』で読む歴史1件を共有 / 人が人を殺す率は、狩猟採集の時代から今まで、長い目で見ればずっと下がってきた、という本。反論も多い。『負債論』で読む歴史1件を共有 / お金は物々交換の不便から生まれた、という話は史料に無い。先にあったのは借りのほうだ、という本。『オリエンタリズム』で読む歴史1件を共有 / 西洋が「東洋」について語ってきたことは、東洋についての知識ではなく、西洋についての物語だった、という本。『反穀物の人類史』で読む歴史1件を共有 / 人が穀物を育てたのではなく、穀物と国家が人を囲い込んだ。最初の国家は、なぜ壁の内側に人を閉じ込めたのか。『アラブが見た十字軍』で読む十字軍1件を共有 / 同じ200年を、襲われた側の年代記だけで書き直した本。彼らはそれを「フランク人の襲来」と呼んだ。『中世の秋』で読む中世の終わり1件を共有 / ルネサンスの前夜ではなく、中世そのものの終わり方。過剰な儀礼と、死への執着に覆われた14〜15世紀。『中国の科学と文明』で読む技術の歴史1件を共有 / 中国には長い科学技術の蓄積があった。では、なぜ近代科学はそこで生まれなかったのか。『モンタイユー』で読む中世の村1件を共有 / ピレネーの村人200人が、異端審問で一人ずつ尋問された。その調書から、村の暮らしが丸ごと出てくる。『暴力と不平等の人類史』で読む格差1件を共有 / 格差を大きく縮めたのは、改革ではなく破局だった。戦争、革命、国家の崩壊、疫病の四つしかない、という本。『イタリア・ルネサンスの文化』で読むルネサンス1件を共有 / 「ルネサンス」という時代の像そのものを作った本。150年たっても、まだその像の中にいる。『リオリエント』で読む世界経済1件を共有 / 1800年まで、世界経済の中心はアジアだった。ヨーロッパは、その列に遅れて並んだ客にすぎない。教育の歴史1件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。差別の歴史1件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。支え合いの歴史1件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。働くことの歴史1件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。老いと死の歴史1件を共有 / どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。お金の歴史1件を共有 / 金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。