オックスフォード英語辞典

概要
語の意味を定めるのではなく、その語が歴史の中でどう使われてきたかを、用例で示す。1857年に文献学協会が構想し、完成まで71年かかった。方法は市民の参加である。世界中の読者に本を割り当て、語の用例をスリップに書いて送らせた。集まった紙片500万枚。編集主幹マレーは庭に鉄板の小屋を建て、1000個の仕切りにそれを収めた。最大の寄稿者の一人マイナーは、殺人を犯してブロードムア精神病院に収容されていた軍医だった。1928年完成、全10巻、41万4825語。
場所
51.75°N -1.26°E · イングランド
本文
1857年11月、ロンドンの文献学協会の会合で、聖職者リチャード・チェネヴィクス・トレンチ(のちのダブリン大主教)が二度にわたって講演した。題は「英語辞典のいくつかの欠陥について」である。それまでの辞書、たとえばジョンソンの英語辞典は、編者が良い言葉と認めたものを選び、その意味を定めていた。トレンチはそれを辞書編纂者の仕事ではないと考えた。辞書を作る者は言葉の歴史家であって、批評家ではない。言語にあるすべての語を、良し悪しを問わず収め、それぞれの語が最初に現れたときから意味がどう移り変わってきたかを、実際の用例で示すべきだ、と彼は説いた。
この考えに沿えば、辞書は途方もない量の読書の上にしか成り立たない。一人の学者にできる仕事ではなかった。協会は英語を話す世界中の人々に向けて、読者への呼びかけを発した。割り当てられた本、あるいは自分で選んだ本を読み、気になる語の使われ方を見つけたら、紙片(スリップ)にその語と書名と年、そして文をそのまま書き写して送ってほしい、というのである。紙片は手のひらほどの大きさと決められた。応じたのは教師、牧師、主婦、退役軍人、医師、暇を持て余した読書家たちで、その数は数千人に及んだ。集まった紙片は最終的に数百万枚、500万枚ともいわれる。

出だしはつまずいた。最初の編集責任者ハーバート・コールリッジ(詩人サミュエル・テイラー・コールリッジの孫)は、1861年に結核で死んだ。31歳だった。死の床でも仕事を気にかけていたという話が伝わる。後を継いだフレデリック・ファーニヴァルは精力的だったが、関心が散らばりすぎた。彼は古い英語の文献を出版する協会や、チョーサー、シェイクスピア、ブラウニングの名を冠した協会を次々に作り、ボート漕ぎのクラブにまで熱を上げた。その間に紙片の管理はおろそかになり、ある束は馬小屋の藁の中から見つかり、ある束は行方が分からなくなった。
1879年、スコットランド出身のジェームズ・マレーが編集主幹になった。42歳である。彼は仕立屋の家に生まれ、14歳で学校を離れた。ほぼ独学で多くの言語を学び、銀行員や学校の教師をしながらスコットランドの方言を研究して、その論文で学界に名を知られていた。オックスフォード大学出版局との契約では、10年で全4巻、6400ページほどの辞書を完成させることになっていた。実際には着手から完成まで71年、全10巻、1万5000ページを超える仕事になる。

マレーは自宅の庭に、波形の鉄板で作業小屋を建て、「写字室」(スクリプトリウム)と呼んだ。オックスフォードに移ってから建てた小屋は、近所の人が景観を損ねると苦情を言ったので、地面を掘り下げて低くした。おかげで中は湿っぽく、冬は寒かった。壁には1000を超える仕切りを持つ棚が並び、紙片がアルファベット順に収められた。マレーの子どもたちも、幼いころから紙片の仕分けを手伝ったという。
作業は地道だった。一つの語について集まった紙片を年代順に並べ、意味の移り変わりを読み取り、語義をいくつに分けるかを決め、それぞれの語義に最もふさわしい用例を選ぶ。「セット」や「ラン」のようなありふれた短い語ほど意味が多く、一語の整理に何週間もかかった。分冊を出すたびに、予定は遅れていった。

最大の寄稿者の一人に、ウィリアム・チェスター・マイナーというアメリカ人がいた。送った紙片は1万枚を超えるとも伝えられる。彼は南北戦争に従軍した外科医で、戦後に重い妄想に苦しむようになった。1872年、ロンドンで、追われているという妄想にとらわれて、通りすがりの労働者ジョージ・メレットを射殺した。心神喪失として罪には問われず、重い罪を犯した精神障害者のためのブロードムア病院に収容された。彼は病院の二部屋に蔵書を運び込むことを許され、何十年もそこで本を読み、紙片を書き続けた。マレーは1891年に彼を訪ね、二人は長く交流を続けた。マイナーは1910年にアメリカへ送還され、1920年に死んだ。この話はサイモン・ウィンチェスターの1998年の本で広く知られたが、マレーが病院を訪ねて初めて相手の素性を知ったという劇的な場面は後の脚色で、マレーは訪問の前から事情を知っていたとされる。
最初の分冊(A で始まる語の前半、352ページ)は1884年に出た。以後、分冊の形で刊行が続いた。マレーは1915年、T の項を編集している途中で死んだ。78歳だった。編集主幹になってから36年がたっていた。仕事はヘンリー・ブラッドリーら共同の編集者たちに引き継がれた。
1928年4月、最後の分冊が出て、辞書は完成した。正式な書名は『歴史的原理に基づく新英語辞典』で、のちに『オックスフォード英語辞典』と呼ばれる。見出し語は41万4825、引用された用例は182万7306にのぼる。完成を祝う晩餐会には首相スタンリー・ボールドウィンも出席した。
辞書はそこで止まらなかった。1933年に補遺を加えた版が出され、1972年から1986年にかけてはロバート・バーチフィールドが新しい語やイギリス以外の英語を大量に加えた補遺4巻を出した。1989年には全20巻の第2版が刊行され、2000年からはインターネット上で第3版への改訂が続いている。改訂は M の項から始まり、いまも終わっていない。
この辞書は、正しい英語を定めるためのものではない。卑語も俗語も、もう使われない語も、誤用から定着した語も、使われた語ならすべて収め、いつ、誰が、どう使ったかを示す。だからこれは辞書であると同時に、英語で書かれたものの歴史の索引でもある。ある語がいつ生まれたかを知りたいとき、人はこの辞書を引く。そしてその最初の用例は、しばしば百年以上前に誰かが手書きで紙片に写し、封筒に入れてオックスフォードへ送ったものなのである。ほぼ同じころ、ドイツではグリム兄弟のドイツ語辞典が、アメリカではウェブスターのアメリカ英語辞典がそれぞれの国の言葉をまとめようとしていたが、市民の読書をこれほど大規模に束ねた辞書はほかに無かった。