マリ・キュリー
概要
放射能の研究でノーベル賞を二度受けた。扱った物質が原因とみられる病で死んでいる。
関わったできごと(1)
ラジウムの発見AD1898年 · 当人本文
1867年11月7日、ワルシャワに生まれた。名はマリア・スクウォドフスカ。当時のワルシャワはロシア帝国の支配下にあり、学校ではロシア語での授業が強いられ、ポーランドの歴史を教えることは禁じられていた(ポーランド分割)。父は中学校で数学と物理を教える教師、母は女学校の校長だった。5人きょうだいの末っ子で、10歳のときに母を結核で、その少し前に長姉をチフスで亡くしている。

学校の成績は抜群で、15歳で高校を首席で卒業した。しかしロシア支配下のポーランドでは、女性は大学に入れなかった。マリアは姉のブロニスワヴァとともに、当局に隠れて開かれていた「移動大学」と呼ばれる非合法の講座で学んだ。会場を転々と変えながら、若い知識人たちが科学や歴史を教え合う場だった。
二人は約束を交わした。まず姉がパリで医学を学び、その間マリアが働いて仕送りをする。姉が医師になったら、今度は姉が妹を支える。マリアは地方の地主の家に住み込みの家庭教師として数年働き、1891年、24歳でようやくパリに出た。ソルボンヌ(パリ大学)の理学部に入り、名をフランス風にマリと書くようになった。

パリでの暮らしは貧しかった。屋根裏部屋に住み、パンとお茶で何日も過ごして勉強に打ち込んだ。冬に凍えて、持っている服をすべて重ねて眠ったこと、空腹で気を失ったことを後に書き残している。1893年に物理学の学士試験に首席で、翌年には数学の試験に2番で合格した。
1894年、鋼鉄の磁気を研究する場所を探していて、物理学者ピエール・キュリーに出会った。ピエールは結晶や磁気の研究で知られていたが、出世には無頓着な人だった。二人は翌1895年に結婚し、新婚旅行は自転車でフランスの田舎を回った。1897年には長女イレーヌが生まれている。

博士論文の題材に選んだのは、前の年にフランスのベクレルが見つけたばかりの、ウランが目に見えない光線を出すという現象だった。その前年にはヴィルヘルム・レントゲンがX線を発見しており(X線の発見)、目に見えない光線は科学の最先端の話題だった。マリは空気の電気の通りやすさを測る装置を使って、光線の強さを正確に量った。そして、光線の強さはウランの量だけで決まり、化合物の形や温度には左右されないことを確かめた。光線は原子そのものから出ている。この性質をマリは「放射能」と名づけた。トリウムも同じ性質を持つことを見つけた。
さらに、ウランを含む鉱石ピッチブレンドが、含まれるウランから考えられるよりはるかに強い放射能を持つことに気づいた。鉱石の中に、まだ知られていない元素がある。ピエールも自分の研究を止めて加わり、1898年7月に新しい元素を発表して、祖国にちなんでポロニウムと名づけた。12月には、もう一つの元素ラジウムを発表した(ラジウムの発見)。

存在を認めてもらうには、元素そのものを取り出して重さを量る必要があった。二人は勤め先の学校の、雨漏りのする物置小屋を実験室にした。数トンの鉱石の残りかすを大鍋で煮て、溶かし、分け、結晶にする作業を繰り返した。マリは重い鉄の棒で一日じゅう鍋をかき混ぜ続けたと書いている。夜、暗い小屋の中で、試料の入った瓶がかすかに青白く光っていたことを、二人はとても美しいものとして覚えていた。0.1グラムの純粋な塩化ラジウムを取り出すまでに4年かかった。
1903年、マリは博士号を取り、同じ年にベクレル、ピエールとともにノーベル物理学賞を受けた。当初、科学アカデミーの推薦にはマリの名が入っていなかった。それを知ったピエールが、研究はマリと共同のものだと抗議して、三人の受賞になったとされる。女性として初めてのノーベル賞だった(ノーベル賞の始まり)。
幸せは長く続かなかった。1906年4月、ピエールはパリの雨の通りで荷馬車にひかれて亡くなった。マリは38歳で、二人の幼い娘が残された。悲しみのなかで、マリはピエールの講座を引き継ぎ、ソルボンヌで初めての女性教授になった。最初の講義は、ピエールが最後に話した言葉の続きから始めたと伝えられる。
1911年、マリはまた嵐に巻き込まれた。科学アカデミーの会員選挙に立候補し、わずかな差で落選した。同じ年、ピエールの元教え子で妻と別居中だった物理学者ランジュヴァンとの関係が新聞に書き立てられ、外国人で女性のマリは激しい攻撃を受けた。自宅には群衆が押しかけた。その最中に、二度目のノーベル賞として化学賞の受賞が決まった。スウェーデンの学者から授賞式に来ないほうがよいという手紙が届いたが、マリは、賞は私の仕事に対して与えられたもので私生活とは関係ない、と返して授賞式に出た。二つの分野でノーベル賞を受けたのは、今もごくわずかしかいない。
1914年に第一次世界大戦が始まると、マリはX線の装置を自動車に積んで前線の病院を回る仕組みを作った。兵士たちは「小さなキュリー」と呼んだ。マリは自分で運転免許を取り、10代の娘イレーヌを助手にして戦地に向かった。装置を備えた車は約20台、固定の施設は約200か所になり、多くの負傷兵の体の中の弾丸や骨折がこれで見つけられたとされる。

戦後はパリのラジウム研究所を率いた。1921年にはアメリカを訪れ、女性たちの募金で買われたラジウム1グラムを大統領から贈られている。研究所からは多くの研究者が育ち、娘のイレーヌも夫とともに人工放射能を発見して、1935年にノーベル化学賞を受けた。
マリは放射線の危険を十分には知らなかった。ラジウムの入った試験管をポケットに入れて持ち歩き、指先はやけどで硬くなり、晩年は白内障を患った。1934年7月4日、フランス東部の療養所で、再生不良性貧血のため66歳で亡くなった。長年浴びた放射線が原因とみられている。マリが使った実験ノートは、100年近くたった今も放射能を帯びていて、閲覧するには同意書が要るという。

1995年、ピエールとマリの遺骨はパリのパンテオンに移された。自分の業績によってそこに葬られた最初の女性である。マリはラジウムの取り出し方の特許を取らなかった。科学の成果は誰のものでもない、というのが夫婦の考えだった。