董仲舒
概要
天と人は感応し、皇帝の失政は天災で示される、と説いた。儒学を国の学問にする献策をし、皇帝の権力に儒教の枠をはめた。
所属
前漢関わったできごと(1)
儒学の官学化BC136年 · 献策本文
董仲舒は紀元前179年頃、いまの河北省にあたる広川に生まれた。若い頃から、孔子が編んだとされる魯の国の年代記『春秋』を、その一字一句に込められた意味を読み解く公羊学という学派の方法で学んだ。景帝の時代に、学問を司る博士に任じられている。

その学問への没頭ぶりは、3年間、自分の家の庭さえ見なかったという話で伝わる。弟子たちに教えるときには、部屋に帷を下ろし、その向こうから講義した。弟子の数が多く、古い弟子が新しい弟子に教えたので、董仲舒の顔を見たことのない弟子もいたという。
当時の漢の朝廷では、道家の流れをくむ黄老思想が重んじられていた。民を休ませ、なるべく干渉しないという考えで、秦の苛酷な支配と戦乱の後の世には合っていた。だが若い漢の武帝が即位すると、事情が変わった。武帝は、国を積極的に動かす理念を求めて、全国から賢良と呼ばれる人材を集め、国の治め方を問うた。董仲舒はこれに3度答えた。天人三策と呼ばれる答申である。

その中心にあるのが、天と人とは互いに感応し合う、という考えだった。天は自然の秩序であると同時に、人の行いを見ている意志のある存在でもある。君主の政治が正しければ、天はめでたいしるしを示し、誤っていれば、日食や地震、洪水などの災異を下して戒める。それでも改めなければ、国は滅びる。災異は、天が君主を叱っているのだ、というのである。
もう一つの柱が、学問の統一だった。董仲舒は、孔子の教え、すなわち儒学の経典に無いものは、その道を絶って並び立たせないようにすべきだと説いた。国の考えが一つにまとまれば、法の基準もはっきりし、民も従う所を知る、という理屈である。この献策が容れられ、紀元前136年に儒学の経典を教える五経博士が置かれ、のちには官僚を育てる太学が開かれた(儒学の官学化)。儒学が国の学問となる、その出発点がここにある。
だが献策した本人は、朝廷で高い位に就くことはなかった。武帝は彼を、自分の兄である江都王の補佐役に任じた。江都王は武勇を好む驕慢な王だったが、董仲舒を敬ったという。董仲舒はその地で、陰陽の理論に従って雨乞いや雨止めの術を行い、その効き目があったと伝えられる。
やがて、大きな災難が彼を襲った。皇帝の先祖を祀る廟が火事で焼けたとき、董仲舒はこれを天の戒めとして論じる文章を書いた。その草稿を、彼を妬む主父偃という官僚が盗み出して、武帝に差し出した。武帝が学者たちに見せると、董仲舒の弟子の一人が、師の書いたものとは知らずに、これは大いに愚かな説だと評した。董仲舒は獄に下されて死罪を言い渡され、武帝の詔によって赦された。それ以後、彼は二度と災異について語らなかったという。
その後、同じ公羊学者で宰相にまでなった公孫弘に疎まれ、凶暴なことで知られた別の王の補佐役に回された。董仲舒は病を理由にほどなく職を辞し、家に引きこもって学問と著述に専念した。それでも朝廷は、重大な問題が起きると、使者を彼の家へ遣わして意見を求めたと伝えられる。紀元前104年頃、家で死んだ。
彼の思想をまとめたものとして『春秋繁露』が伝わる。ただし、後世の手が加わった部分も多いとみられている。陰陽と五行という自然の原理と、儒学の倫理とを結びつけ、君主の権力を天の秩序の中に置いた。君主は天の子として民の上に立つが、同時に天の意志に従わなければならない。董仲舒は皇帝を高めながら、その権力に天という枠をはめようとしたのである。
『史記』を書いた司馬遷は、若い頃に董仲舒に学んだとみられ、『春秋』について董先生からこう聞いた、と書いている。董仲舒の天人相関の考えは、その後2000年にわたって、天災のたびに皇帝が自らを省み、臣下が君主を諫める根拠として使われた。一方で、儒学の国教化を董仲舒一人の功績とするのは、後漢の時代に書かれた『漢書』の描き方によるもので、実際にはもっと時間をかけて進んだとする研究もある。