ヤーコプ・ブルクハルト
概要
バーゼルの牧師の家に生まれ、生涯その町で教えた。ルネサンスを「個人の発見」として描き、その像がいまも通用している。
本文
ヤーコプ・ブルクハルトは1818年5月25日、スイスのバーゼルに生まれた。父は同じ名の牧師で、のちにバーゼル大聖堂の首席牧師になる人である。ブルクハルト家は町の古い有力な一族で、彼は生涯、この町を自分の居場所とした。

若いブルクハルトは、父の跡を継ぐつもりでバーゼル大学の神学部に入った。だが聖書を史料として厳しく読む当時の新しい神学に触れるうちに、信仰の確かさが揺らいだ。神学をやめ、1839年にベルリン大学へ移って歴史を学ぶ。
ベルリンでは、近代歴史学の父と呼ばれるランケのもとで学んだ。ランケは国家と外交を軸に、公文書を厳密に読んで「それが実際どうであったか」を示そうとした。ブルクハルトはその方法の確かさに学びつつ、自分の関心は別のところにあると気づいていく。同じころ美術史家フランツ・クーグラーに親しみ、絵や建物の中に時代の心を読む見方に惹かれた。

バーゼルに戻ったブルクハルトは、大学で教えながら新聞の編集もしたが、政治の争いには深く失望した。やがてイタリアへ何度も旅をして、各地の教会や宮殿、絵を見て歩いた。その成果が1855年の『チチェローネ』で、イタリアの美術を見て回るための案内書として長く読まれた。同じ年、新しくできたチューリヒの工科大学の教授になったが、1858年に故郷のバーゼル大学に戻り、以後35年間、歴史と美術史を教えた。
1860年、主著『イタリア・ルネサンスの文化』を出した。本は年代順の歴史ではなく、六つの部に分かれている。芸術作品としての国家、個人の発展、古代の復活、世界と人間の発見、社交と祝祭、道徳と宗教。君主たちは国家を計算と意志で作り上げる「作品」として扱い、人びとは中世の団体の一員としてではなく、一人の個人として自分を意識しはじめた。ブルクハルトはそう論じ、ルネサンスの人を「近代ヨーロッパの長子」と呼んだ(イタリア・ルネサンスの盛期)。ルネサンスといえば「個人の発見」という見方は、ここから広まった。

この本は、政治と外交を中心にした歴史に対して、人びとの感じ方や振る舞い、祝祭や信仰を描く「文化史」の手本になった。ただし、後世の研究からは批判も多い。中世にもすでに個人の意識や古典の復活はあった、と中世史家たちは反論した(アーヘンの宮廷学校)。イタリアだけを特別扱いしている、という指摘もある。それでも、論じるべき問いの枠組みを作ったという点で、この本はいまもルネサンス研究の出発点に置かれている(物語「『イタリア・ルネサンスの文化』で読むルネサンス」)。
本は評判になったが、ブルクハルトは名声を追わなかった。1872年、ランケの後任としてベルリン大学の教授に招かれたが、断った。生涯独身で、バーゼルの質素な部屋に住み、講義と散策と音楽を楽しみにした。学生だけでなく町の人びとに向けた公開講義も続け、話は明快で人気があった。晩年は自分の本を書くより講義に力を注ぎ、のちの『ギリシア文化史』や『世界史的考察』は、彼の講義の原稿から死後にまとめられた本である。
1869年、20代の若さでバーゼル大学の古典文献学の教授として、ニーチェが赴任してきた。ニーチェは26歳年上のブルクハルトを深く敬い、講義にも出て、何度も話し込んだ。ブルクハルトは礼儀正しく距離を保ち、ニーチェの思想に深入りはしなかった。それでも1889年はじめ、精神を病んだニーチェが書いた最後の手紙の一通は、ブルクハルトに宛てられていた(神は死んだ)。
ブルクハルトは、自分の時代の行く末を暗く見ていた。工業と大衆の時代になり、国家の力が膨らみ、人びとは目新しさと金に追われている。1889年の友人への手紙で、彼は「恐るべき単純化をする者たち」がやって来るだろうと書いた。複雑な世界を単純な合言葉で割り切り、力ずくで人びとを従わせる者たちのことである。20世紀の独裁を予言した言葉として、のちによく引かれるようになった。
1897年8月8日、ブルクハルトはバーゼルで死んだ。79歳だった。のちにスイスの1000フラン紙幣に肖像が刷られ、故郷の町は彼の名を学問と結びつけて記憶している。