ペニー・ブラックと郵便改革
概要
それまでの郵便は、受け取る側が距離に応じて払った。高額で、受取拒否が多く、集金の手間が費用の大半を占めていた。ローランド・ヒルは、費用を分析して、距離はほとんど関係ないことを示した。かかるのは仕分けと配達である。だから、全国どこでも重さだけで決め、前払いにし、支払いの証拠として紙片を貼る。半オンスまで一ペニー。世界初の切手。10年で郵便物は5倍以上になり、識字と教育と、庶民の手紙の習慣が広がった。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
ローランド・ヒルAD1795年12月3日–AD1879年8月27日 · 考えた本文
十九世紀の初めまで、イギリスの郵便は受け取る側が料金を払う仕組みだった。料金は運ぶ距離と、手紙に使った紙の枚数で決まった。重さではなく枚数なので、紙が二枚なら料金は二倍になる。1830年代の終わりの料金は、一枚の手紙でも、近場なら数ペンス、数百マイル先なら十ペンスを超え、いちばん遠いところでは一シリングを上回った。農場で働く人の一日の稼ぎが一シリングほどだった時代である。遠くの家族から一通の手紙を受け取るのに、一日分の稼ぎが消えた。
受け取る側が払う仕組みは、さまざまな無駄と不正を生んだ。払えない人は受け取りを断る。配達人は宛先まで行って断られ、手紙を持ち帰る。手間だけがかかって、収入にならない。料金を払わずに知らせだけを受け取る工夫も広まった。封筒の表に決めておいた印を付けておき、受取人はそれを見て中身を察し、受け取りを断るのである。無事なら印を一つ、病気なら二つ、というわけだ。国会議員には、自分の署名をした郵便物を無料で送れる特権があり、議員が友人や支持者のために署名した封筒を配るといった濫用も横行して、大量の郵便物が料金を払わずに運ばれていた。

この仕組みを根本から改めようとしたのが、ローランド・ヒル(1795〜1879年)である。イングランド中部の教師の家に生まれ、十二歳で父の学校の手伝いを始め、やがて兄弟とともに学校を営んだ。生徒による自治や体罰の廃止を掲げた、当時としては進んだ学校だった。その後、南オーストラリアへの植民を進める委員会の書記を務めた。郵便の役人ではなく、まったくの外部の人間である。
1837年、ヒルは郵便の改革を説く小冊子を発表した。彼がしたのは、費用の分析である。ロンドンからエディンバラまで手紙を運ぶのに、どこにどれだけ費用がかかっているかを、集める、仕分ける、運ぶ、配る、料金を受け取る、と項目ごとに分けて計算した。すると、運ぶ費用は驚くほど小さかった。彼の計算では、手紙一通をエディンバラまで運ぶ費用は一ペニーのわずか数十分の一にすぎなかった。郵便馬車はどのみち走っており、鉄道も通り始めていた(鉄道の開業)。手紙を一通増やして運ぶ費用は、ほとんどゼロに近い。費用の大半は、仕分けと配達と、そして料金の計算と徴収にかかっていた。配達人が一軒ごとに距離と枚数から料金を計算し、金を受け取り、釣りを渡し、断られれば持ち帰る。その手間がいちばん高くついていたのである。

そこからヒルの提案が出てくる。料金は距離にかかわらず全国どこでも同じにする。紙の枚数ではなく重さで決め、半オンスまで一ペニーとする。料金は送る側が前もって払う。そして払ったことの証拠として、糊の付いた小さな紙片を手紙に貼る。料金を印刷した封筒を使ってもよい。
郵便の役所の幹部たちは猛反対した。郵政長官は、これまで聞いた中でもっとも乱暴で途方もない計画だと言ったと伝えられる。料金を何分の一にも下げれば収入は激減し、郵便物が増えれば仕事が回らなくなる、というのが彼らの言い分だった。だが、商人や改革を求める議員、そして世論がヒルを支持した。ヒルは数字を誰にでも分かる形で示すことに長けており、改革を求める請願が全国から寄せられた。1839年に法律が成立し、1840年1月、全国均一の一ペニー郵便が始まった。

1840年5月6日、世界最初の郵便切手が使えるようになった。黒地に若き日のヴィクトリア女王の横顔を刷り、一ペニーの額面を記した切手で、のちにペニー・ブラックと呼ばれる。印刷したのは、偽造を防ぐ技術で知られた印刷会社だった(偽造との競争)。切手には国名が書かれていなかった。世界でただ一つの切手なのだから、国名など必要なかったのである。このならわしはいまも続き、イギリスの切手は国名の代わりに君主の横顔を載せている。ペニー・ブラックは七千万枚近く刷られたので、いまでもそれほど珍しいものではなく、使用済みのものなら手の届く値段で手に入る。同時に、二ペンスの青い切手も発行された。
同じ日に売り出された料金前払いの封筒は、評判が悪かった。画家マルレディが描いた、世界の人々に郵便を届けるブリタニアの寓意画が刷られていたが、大げさな図柄は新聞や風刺画家の格好の笑いの種になり、まねた戯画の封筒まで売り出された。封筒はまもなく回収され、人々が選んだのは、小さな切手のほうだった。

困ったことが一つあった。黒い切手に押した消印が、よく見えないのである。消印を洗い落として切手を使い回す者が現れた。そこで翌1841年、切手の色は赤茶色に変えられ、消印は黒いインクで押されるようになった。ペニー・ブラックの命は一年足らずだった。
効果ははっきり表れた。イギリス国内で配達された手紙の数は、改革前の1839年の七千六百万通ほどから、翌1840年には一億六千九百万通と倍以上になり、1850年には三億通を超えた。郵便の収入は最初は落ち込み、元の水準に戻るまでにヒルの見込みより長い年月がかかったが、社会に与えた影響は大きかった。
一ペニーなら、庶民にも払える。手紙はもはや贅沢ではなくなった。手紙が安くなれば、読み書きできることの値打ちが上がる。郵便の改革と学校教育の広がりは同じ時代に進み、互いを押し上げた。故郷を離れて都市へ、あるいは海の向こうのアメリカやオーストラリアへ渡った人々にとって(アイルランドのジャガイモ飢饉)、手紙は家族をつなぐただ一つの糸だった。商店は郵便で品物の案内を送り、通信販売が広がった。1843年には、ヒルの改革を手伝ったこともあるヘンリー・コールが、印刷した最初のクリスマス・カードを作った。安く送れるようになったからこそ成り立った習慣である。
切手の仕組みは、たちまち世界に広がった。1843年にはスイスのチューリヒやジュネーヴ、ブラジルが切手を出し、1847年にはアメリカが、1849年にはフランスが続いた。日本では1871年、イギリスの制度を学んだ前島密によって近代の郵便が始まり、最初の切手が発行された。1874年にはスイスのベルンで万国郵便連合が作られ、加盟した国どうしでは、自国の切手を貼るだけで相手の国まで手紙が届くようになった。それまでは、通る国ごとに取り決めと料金が必要だったのである。この組織はいまも国際連合の専門機関として活動しており、国際連合そのものより七十年以上古い。
ヒル自身は、その後郵便の役所に迎えられ、1854年には事務方の長となった。1860年にナイトの称号を受け、1879年、八十三歳で世を去り、ウェストミンスター寺院に葬られた。運ぶ費用ではなく、数えて受け取る手間こそが高いことを見抜いた一人の教師の分析が、世界中の人々が手紙を書く時代を開いた。