ニュー・ラナークの実験

概要
クライド川の紡績工場を買ったロバート・オーウェンが、10歳未満の児童労働をやめ、労働時間を10時間半に減らし、工場の中に学校(1816年、性格形成学院)と、世界初とされる幼児学校と、安い店を作った。生産は落ちなかった。「人の性格は環境が作る」。1819年の工場法、協同組合、労働組合、そしてユートピア社会主義が、ここから出た。2001年、世界遺産。
場所
55.66°N -3.78°E · イギリス・スコットランド
関わった人(1)
ロバート・オーウェンAD1771年5月14日–AD1858年11月17日 · 経営した本文
スコットランドのクライド川は、グラスゴーの上流で深い谷を刻み、いくつもの滝を落ちていく。1786年、グラスゴーの銀行家デイヴィッド・デイルは、水力紡績機で名を上げたリチャード・アークライトとともに、この落差を使う紡績工場を滝の下に建てた。工場の周りには、働く人々が住む石造りの集合住宅が並び、一つの村ができた。ニュー・ラナークである。産業革命の初め、工場は水の力が得られる川沿いの谷に建てられたので、人里離れた場所に人を集め、住まわせる必要があった。
1799年、ウェールズ生まれの28歳の青年が、仲間の出資者とともにこの工場を買い取った。マンチェスターで紡績工場の支配人として腕を振るっていたロバート・オーウェンである。彼は同じ年にデイルの娘キャロラインと結婚し、翌年から工場の経営を引き継いだ。

そのころの村には、2000人近くが暮らしていた。その中には、エディンバラやグラスゴーの救貧院から送られてきた貧しい子どもたちが数百人いた。デイルは当時としては子どもたちの扱いに気を配った工場主だったが、それでも幼い子どもが長い時間、機械のそばで働いていた。オーウェンの目に映った村は、酒と盗みと不潔さに満ち、働く人々は新しい経営者を警戒していた。
オーウェンは、少しずつ村を変えていった。救貧院から子どもを受け入れるのをやめ、10歳に満たない子どもを工場で働かせないことにした。1日の労働時間を、当時ふつうだった13時間を超える長さから、のちには10時間半まで縮めた。体罰をやめ、そのかわりに「無言の監視者」と呼ばれる仕掛けを使った。持ち場ごとに四つの面を黒、青、黄、白に塗り分けた木片を吊るし、前の日の働きぶりに応じて、見えている面の色を変える。叱る声も鞭もなく、誰もが自分と周りの評価を目で見ることができた。
工場主が自分の店で品物を高く売りつけ、賃金をそこで使わせることが珍しくなかった時代に、オーウェンは村の店で質のよい品を仕入れ値に近い値段で売り、儲けを学校の費用に回した。酒の量を抑え、通りの清掃を組織し、住まいを改めた。1806年、アメリカが綿花の輸出を止めて工場が4か月動かなくなったとき、オーウェンは仕事の無い労働者に賃金を払い続けたという。これで村の人々の信頼を得たと、彼は後に書いている。
改革の中心は教育だった。1816年1月1日、オーウェンは「性格形成学院」と名づけた建物を開いた。昼は子どもの学校、夜は働く大人のための講義や読み書きの教室、ダンスの場になった。ここには、歩けるようになったばかりの幼い子どもを預かる幼児学校が置かれ、イギリスで最初の幼児学校とされる。母親が安心して働けるようにするためでもあった。教室では暗記や体罰を禁じ、実物や絵、地図を使い、歌い、踊り、外に出て自然に触れることを大切にした。子どもが退屈するのは教える側の責任だ、というのがオーウェンの考えだった。これは、ほぼ同じ時代のヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチの教育や、のちのフレーベルと幼稚園と響きあう試みである。

大事なのは、これが慈善ではなく、儲かる経営として示されたことだった。オーウェンは株主に、鉄の機械を手入れすれば利益が上がるように、人という機械を大切にすれば、もっと高い利回りが得られる、と説いた。それでも、出資者の中には、学校に金をかけすぎで配当が少ないと不満を言う者が多く、オーウェンは何度も共同経営者を入れ替えた。1813年に作り直した経営の仲間には、哲学者のジェレミー・ベンサムや、クエーカーの実業家ウィリアム・アレンが加わっている。
ニュー・ラナークは、たちまち評判になった。1815年からの10年ほどで、2万人近い見学者が訪問者の名簿に名を記したという。のちのロシア皇帝ニコライ1世となる大公をはじめ、各国の王族や政治家、改革を志す人々が谷を訪れた。
オーウェンの考えの土台には、一つの確信があった。人の性格は、その人自身が作るのではなく、周りの環境によってその人のために作られる、というものだ。生まれつきの悪人はいない。だから罰しても意味はなく、環境と教育を変えればよい。彼はこれを1813年から書いた『社会に関する新見解』で説いた。また、工場で働く子どもを守る法律を求めて議会に働きかけ、1819年の工場法の成立につながった。ただ、できあがった法は彼の案よりずっと弱く、本格的な規制は1833年工場法を待たなければならなかった。

オーウェンの夢は、工場の村にとどまらなかった。彼は、農業と工業を組み合わせ、皆で働き皆で分かちあう協同の村を、社会全体の仕組みにしようと考えた。1825年、アメリカのインディアナ州に土地を買って、ニュー・ハーモニーという共同体を作った。だが、志を同じくしない人々まで誰でも受け入れたこともあって、共同体は内輪もめを重ね、2年ほどで行き詰まった。オーウェンはこれで財産の大半を失い、ニュー・ラナークの経営からも手を引いた。
イギリスに戻ったオーウェンは、労働者の運動に身を投じた。1834年に結成された全国労働組合大連合は、短い間に多くの組合員を集めたが、同じ年、ドーセットのトルパドル村で組合を作った農業労働者6人が、秘密の誓いを立てたという理由でオーストラリアへの流刑を言い渡されるなど、政府の厳しい締めつけと内部の混乱で、まもなく崩れた。それでも、オーウェンの考えに学んだ人々が1844年に北イングランドのロッチデールで始めた店は、今日の協同組合の原型になった。のちにカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスは、オーウェンを空想的社会主義者と呼びつつ、その先駆けとしての意義を認めている。

晩年のオーウェンは心霊術に傾き、1858年、生まれ故郷のウェールズのニュータウンで87歳の生涯を閉じた。ニュー・ラナークの工場は1968年まで動き続け、その後荒れ果てたが、住民と保存団体が村を修復し、2001年に世界遺産に登録された。