アンベードカル
概要
不可触民として生まれ、憲法起草委員長になった。カースト制度そのものの否定を主張し、ガンディーと対立する。
関わったできごと(2)
インドの独立AD1947年8月15日 · 憲法の起草インド憲法の施行AD1950年1月26日 · 起草を率いる本文
1891年4月14日、中央インドの軍の駐屯地ムホウで生まれた。家はマハールというカーストに属し、ヒンドゥー社会で「触れると穢れる」とされた不可触民(ダリト)だった。父はイギリス軍の下士官で、14人きょうだいの末っ子として育った。軍に勤める家だったため、教育を受ける機会には比較的恵まれていた。

学校で、他の生徒と同じ場所に座れない。家から持ってきた麻袋を床に敷いて、教室の隅に座った。水も、自分で汲めない。上位カーストの用務員が高いところから注いでくれるのを、手で受けて飲む。用務員がいなければ、その日は飲めない。のちに自ら書き残した覚え書きに、こうした経験が綴られている。教師の中には、彼のノートに触れることを嫌がる者もいた。
1907年、中等教育の修了試験に合格した。マハールで最初の合格者の一人とされ、地域の人々が祝いの会を開いている。ボンベイのエルフィンストン・カレッジを卒業すると、改革に熱心なバローダ藩王の奨学金を得て、1913年にアメリカのコロンビア大学へ留学した。そこでは誰も彼のカーストを気にしなかった。ニューヨークでの数年は、生まれて初めて人と対等に食卓を囲んだ時期になる。

さらにロンドンへ渡り、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで経済学を学び、法廷弁護士の資格も取った。コロンビア大学とロンドン大学で博士号を得て、インドで最も学歴の高い人物の一人になる。
それでも、帰国した彼を待っていたのは同じ扱いだった。奨学金の約束でバローダの役所に勤めたが、部下さえ書類を投げて渡し、宿は不可触民と分かると追い出された。公園の木の下で泣いたと、本人が書いている。

1920年代から、不可触民の権利を求める運動の先頭に立った。1927年、西インドのマハードで、法の上では誰でも使えるはずの貯水池から仲間とともに水を飲む行動を起こした。同じ年、カーストの差別を定めた古代の法典『マヌ法典』を公衆の前で焼いている。
ここでガンディーと対立した。ガンディーは、不可触民を「神の子(ハリジャン)」と呼び、ヒンドゥー教徒の良心に訴えて差別をなくそうとした。カーストという枠組みそのものは、職業の分担として残しうると考えていた。アンベードカルは、不可触民制はカースト制度から生まれたものであり、制度そのものを否定しなければ差別は消えないと主張した。

対立が頂点に達したのは1932年だった。イギリスが、不可触民が自分たちの代表を自分たちだけで選ぶ分離選挙を認めると、獄中のガンディーは、それはヒンドゥー社会を引き裂くとして死に至る断食を始めた。ガンディーが死ねば、不可触民への報復が起きかねない。アンベードカルは折れ、分離選挙のかわりに一般の選挙区に不可触民のための留保議席を設けるプーナ協定に署名した。のちまで、彼はこの協定を強いられたものと語っている。
1935年、彼は宣言した。「私はヒンドゥーとして生まれたが、ヒンドゥーとしては死なない」。翌年には講演のために用意した原稿『カーストの絶滅』を、主催者が内容を理由に講演を取り消したため、自費で出版した。カーストを支える聖典の権威そのものを否定する文章である。

1947年、インドは独立した。会議派と対立してきた彼を、ジャワハルラール・ネルーは初代の法務大臣に迎え、さらに憲法起草委員会の委員長に任じた。2年余りの審議を経て完成した憲法は、不可触民制を廃止し、どんな形であれその慣行を禁じると明記した。公職や教育での留保制度も盛り込まれた。1950年1月、憲法が施行される(インド憲法の施行)。
だが、ヒンドゥー教徒の結婚や相続を改め、女性に財産の権利を認めるヒンドゥー法典の案は、議会の保守派に阻まれた。1951年、彼は抗議して大臣を辞めた。その後の選挙では落選している。

晩年の彼が向かったのは、ゴータマ・シッダールタの教えだった。生まれによる上下を認めない仏教こそ、インドの土から生まれた平等の宗教だと考えた。1956年10月14日、中部インドのナーグプルで、数十万人の支持者とともに仏教へ改宗した。自分も信者も、ヒンドゥーの神々を拝まないことを含む誓いを立てている。
その2か月足らず後の12月6日、デリーで死んだ。65歳だった。持病の糖尿病が悪化していた。死の直前まで、仏教の教えをまとめた書物の原稿に手を入れていた。

いまインドの各地の村や町に、背広を着て憲法の書物を抱えた彼の像が立っている。ダリトの人々は彼を「バーバーサーヘブ(尊い父)」と呼ぶ。彼の改宗に続いた人々の仏教は、インドの仏教徒の大きな部分を占めている。1990年、インド政府は最高の勲章を死後の彼に贈った。カーストの差別は法の上では禁じられたが、社会からは消えていない。彼が問うたことは、いまも続いている。