ベルティヨンの人体測定法
概要
常習犯を見分けたい。名前は偽れる。顔も変わる。パリ警視庁の書記アルフォンス・ベルティヨンは、成人の骨格は変わらないという前提で、身長、頭の長さと幅、中指の長さ、左足の長さ、前腕、耳の形など11項目を測り、カードに記録した。正面と横顔の写真を規格化して添えた(現在の顔写真の形式はここから来る)。導入の翌年、241人の再犯者を特定した。世界中の警察が採用し、そして1903年、測定値がほぼ同じ別人が現れて、崩れた。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
関わった人(1)
アルフォンス・ベルティヨンAD1853年4月22日–AD1914年2月13日 · 考えた本文
十九世紀の警察は、一つの困りごとを抱えていた。捕まえた者が前にも罪を犯した常習犯かどうかを、どうやって見分けるか。フランスの法は再犯者に重い罰を科し、1885年の法律は、罪を重ねた者を植民地への終身の流刑にすると定めた。ところが、捕まった者が初めてですと言えば、それを覆す手だてがほとんどなかった。前科の記録は名前の順に並んでいたので、偽名を使われれば探しようがない。パリ警視庁は1870年代から容疑者の写真を撮っていて、写真は何万枚もたまっていたが、それを探す方法がなかった。一枚ずつ見比べるしかない。入れ墨や傷あとも記録されていたが、入れ墨は消すこともできた。
この問題を解いたのが、警視庁の一書記だったアルフォンス・ベルティヨン(1853〜1914年)である。パリの学者の家に生まれた。父は医師で統計学者、パリの人類学会の創設者の一人で、祖父も博物学者だった。だがアルフォンス自身は学校でつまずき続け、いくつもの学校を退学させられた。イギリスへやられても続かず、医学も続かず、軍隊に入った。1879年、二十六歳のとき、父のつてでパリ警視庁のいちばん下の書記の職を得た。仕事は、前科者の記録カードを書き写すことだった。給料は安く、体も弱く、同僚からは変わり者と見られていた。

書き写すカードには、身長は中くらい、髪は茶色、目は茶色、鼻は普通、といった記述が並んでいた。これでは誰のことも見分けられない。ベルティヨンの育った家では、体の寸法を測ることが日常だった。父も祖父も、人類学の研究として人の体を測っていたからである。家の書棚には、ベルギーの統計学者ケトレーの著作もあった。人の体の各部の寸法は、平均のまわりに一定の形で散らばるという考えである。ベルティヨンは考えた。大人の骨格の寸法は、年を取ってもほとんど変わらない。一つの寸法なら同じ人はいくらでもいるが、いくつもの寸法を組み合わせれば、すべてが一致する人はめったにいないはずだ。一つの項目を大中小の三つに分けるだけでも、十一の項目を組み合わせれば、十七万通りを超える。
彼が選んだ項目は、最終的に十一になった。身長、両腕を広げた長さ、座ったときの高さ、頭の長さと幅、右耳の長さと幅、左足の長さ、左手の中指と小指の長さ、左の前腕の長さである。体の左側を測るのは、多くの人が右利きで、右側は仕事で形が変わっている恐れがあったからだ。これに目の虹彩の色の区分と、傷やほくろの位置などの特徴の記録が加わった。

だが、本当の発明は測ることよりも、並べ方にあった。測っただけでは、何万枚ものカードの中から目当ての一枚を探せない。ベルティヨンはカードの棚を段階的に分けた。まず頭の長さで大中小の三つに分け、それぞれを頭の幅で三つに、さらに中指の長さで三つに、と次々に分けていく。こうすれば、何万枚ものカードも、数分のうちに数十枚ほどにまで絞り込める。
写真の撮り方も決めた。正面と右の横顔の二枚を、決まった距離、決まった明るさで、頭を固定する器具を付けた椅子に座らせて撮り、縮尺もそろえる。いま世界中の警察が撮る、正面と横顔を並べた顔写真の形は、ここから来ている。

ベルティヨンは上司にこの方法を提案したが、取り合ってもらえなかった。何度出しても退けられ、一書記の思いつきと一蹴された。1882年になって、ようやく三か月の試験が許された。成果が出なければ打ち切りである。期限が迫った1883年2月、ついに最初の成功が訪れた。デュポンと名乗る窃盗の容疑者を測ったところ、その寸法が、数か月前に別の名前で捕まった男の記録と一致したのである。その年、彼は四十九人の再犯者を見つけ出し、翌1884年には二百四十一人を見つけた。
1888年、パリ警視庁に身元を確認する専門の部署が置かれ、ベルティヨンはその長になった。彼の方法はベルティヨン式と呼ばれ、ヨーロッパ各国、アメリカ、そして日本の警察にも取り入れられた。ベルティヨンは、犯行の現場を三脚の高い位置から真上に向けて撮り、縮尺を写し込む撮影法も考え出した。いまの鑑識写真の原型である。足跡の型取りや筆跡の比較にも手を広げた。

名声を決定づけたのは、1892年の爆弾事件だった。パリで相次いだ爆破の犯人として捕まった無政府主義者ラヴァショルが、かつて別の名前で捕まった男と同一人物であることが、ベルティヨン式の記録によって確かめられたのである。新聞はこれを大きく報じ、ベルティヨンの名はフランスの外にも知られるようになった。
だが、ベルティヨン式には弱点があった。正しく測るには訓練を積んだ係官が要り、測り方がぶれれば検索できない。一人を測るのに時間がかかる。骨が伸び続ける子どもや少年には使えない。そして何より、現場には何も残らない。体を測るには、まず犯人を捕まえなければならない。指紋には、こうした弱点がなかった。誰でも簡単に採れ、一生変わらず、そして現場に残る(指紋による身元確認)。1901年、ロンドン警視庁は指紋の方式に切り替えた。

1903年、アメリカのカンザス州にあるレヴンワース刑務所で、ウィル・ウェストという男が収監されたとき、その寸法が、すでに同じ刑務所にいたウィリアム・ウェストという受刑者とほとんど一致し、顔もよく似ていたという話が伝わっている。二人の指紋ははっきり違っていた。この話には後の脚色が混じっているとされるが、ベルティヨン式の限界と指紋の確かさを示す例として、広く語られることになった。各国の警察は次々に指紋へと移り、フランスでも指紋が主役になっていった。
ベルティヨンの評判に決定的な傷をつけたのは、ドレフュス事件である。1894年、ユダヤ系のフランス陸軍の将校ドレフュスが、ドイツに機密を漏らしたとして疑われた。証拠は、ドイツ大使館から持ち出された一枚の文書の筆跡だけだった。筆跡の専門家ではないベルティヨンが鑑定に呼ばれ、異様な論を展開した。文書の筆跡がドレフュスのふだんの筆跡と違うことは認めたうえで、ドレフュスは自分の筆跡をわざと崩して書いたのであり、違っていることこそが証拠だと言うのである。彼は複雑な図や確率の計算を持ち出して、それを科学的に証明しようとした。軍法会議はこの鑑定を信じ、ドレフュスは有罪となって南米の悪魔島へ流された。のちに数学者ポアンカレらがこの鑑定を検証し、科学的な価値はまったくないと断じた。ドレフュスの無罪が確定したのは、1906年のことである。

ベルティヨンは最後まで自分の鑑定を撤回しないまま、1914年2月に六十歳で世を去った。彼の測定法は、生まれてから二十年ほどで指紋に取って代わられた。だが、決まった形式の顔写真、体系的な記録のカード、すばやく探せる分類、現場の科学的な記録といった彼の仕組みは、いまの警察にもそのまま残っている。それは同時に、国家が一人ひとりを、名前ではなく体そのもので見分ける技術の始まりでもあった。旅券の写真も(顔を貼る)、顔や指紋で本人を確かめるいまの仕組みも、その延長線上にある。