できごと

ガザーリー『哲学者の矛盾』

The Incoherence of the Philosophers
AD1095年
重要度 5
古シベリアの狩猟採集民デンマーク=ノルウェーフィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民西アフリカの穀作農民キメク=キプチャク可汗国セルジューク朝チベットキエフ・ルーシブワイフ朝キエフ・ルーシペチェネグラージプートの諸王国ファーティマ朝ガズナ朝神聖ローマ帝国ヴォルガ・ブルガール西夏東ローマ帝国マクリアルーム・セルジューク朝チャールキヤ朝チョーラ朝ポーランドMagyarsポーランド王国ハザールパーラ朝ブワイフ朝ハンガリー王国スウェーデンアルワプラティーハーラ朝ハドラマウトイエメンバルトの諸部族カリンガカネムアルメニアチャーハマーナ朝アランブルゴーニュジョージア王国マスカットPrussiansフランス王国PomeraniaAD1095年バグダード
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概要

ニザーミーヤ学院の教授が、イブン・シーナーの哲学を20の点で「矛盾」と論じ、3点で「不信仰」と裁いた。世界の永遠、神の個物の認識、肉体の復活。その年、教授を辞めて、10年放浪した。「私は言葉で信じていて、心で信じていなかった」。『宗教諸学の再興』。イスラームの神学は、それから哲学より神秘を選んだ。

場所

バグダード
33.32°N 44.37°E · イラク

関わった人(1)

ガザーリーAD1058年–AD1111年12月19日 · 著者

本文

11世紀の後半、イスラム世界の東部では、トルコ系のセルジューク朝が実権を握り、バグダードのアッバース朝のカリフを保護する形で支配していた。セルジューク朝の名宰相ニザームルムルクは、スンナ派の学問を広めるため、各地に学院を建てた。その中心が、1060年代に開かれたバグダードのニザーミーヤ学院の創設である。1091年、ニザームルムルクは、まだ33歳の一人の学者をこの学院の教授に迎えた。イランのトゥースに生まれたガザーリーである。

ガザーリーは、法学と神学に通じた俊才だった。学院の講義には数百人の学生が集まり、彼はバグダードの宗教界で最も名の知られた学者の一人となった。その彼が取り組んだのが、ギリシアの哲学の流れをくむイスラム世界の哲学者たちとの対決だった。9世紀のバグダードの知恵の館の時代から、アリストテレスの著作はアラビア語に訳され、ファーラービーやイブン・スィーナーが、それをイスラムの世界観と組み合わせた壮大な哲学を築いていた。

バグダードの知恵の館に関わる図版:Maqamat hariri
バグダードの知恵の館Wikimedia Commons Zereshk · Public domain

ガザーリーは、まず相手を知ることから始めた。最初に書いた『哲学者の意図』では、哲学者たちの論理学、形而上学、自然学を、公平に、しかも分かりやすくまとめてみせた。この本はのちにラテン語に訳され、中世ヨーロッパでは「アルガゼル」の名で知られた。序文が訳されなかったため、ヨーロッパの学者たちは長い間、ガザーリーをアリストテレスの忠実な弟子だと思い込んでいたという。

そのうえで、1095年頃、ガザーリーは『哲学者の矛盾』を書き上げた。題の「矛盾」と訳される言葉には、支離滅裂、自己崩壊といった意味がある。哲学者たちは、自分たちの議論は論理で証明されていると主張するが、実際には彼ら自身の基準に照らしても証明になっていない、というのが、ガザーリーの批判の芯だった。彼は20の問題を取り上げ、一つずつ論駁した。

トゥースで発見されたガザーリーのものと考えられる棺
ガザーリーWikimedia Commons Zwemer, Samuel Marinus , (1867-1952) · Public domain

中でも重い三つの点を、ガザーリーは「不信仰」と断じた。第一は、世界は始まりも無く永遠に存在する、という説である。哲学者は、もし神が世界を創ったのなら、なぜその時に創ったのか、それ以前ではなくその時を選ぶ理由が無い、と論じた。ガザーリーは、神の意志は、それ自体で区別の無いものの中から選ぶことができるのだ、と答えた。第二は、神は普遍的なことは知るが、個々の出来事は知らない、という説で、ガザーリーは、それではコーランの説く全知の神ではない、とした。第三は、死後に復活するのは魂だけで、肉体はよみがえらない、という説だった。残りの17の点は、誤りではあるが不信仰とまでは言えない逸脱とされた。

『哲学者の矛盾』の中で、のちの時代に最もよく知られるようになったのは、因果を論じた部分である。火が綿に触れると、綿は燃える。だが私たちが見ているのは、火が触れることと、綿が燃えることが、いつも続いて起こるということだけだ。火の中に燃やす力が宿っているとは、観察からは言えない。燃えるのは、神がそのたびにそう起こしているからであり、私たちはそれが繰り返されるのを見て、習慣的に必然だと思っているにすぎない、とガザーリーは論じた。原因と結果の間の必然的な結びつきは観察できないという指摘は、600年あまりのちのデイヴィッド・ヒュームの議論を思わせるとして、しばしば並べて論じられる。

同じ1095年、ガザーリーの身に異変が起きた。後年の自伝『誤りから救うもの』によれば、彼は自分が名声と地位のために教えていたのではないかという疑いに苦しみ、ある日、講義をしようとしても舌が動かなくなった。食べ物も喉を通らなくなり、医者もさじを投げた。その年の暮れ、ガザーリーは、メッカへの巡礼に行くと言って教授の地位も財産も捨て、バグダードを去った。同じ年には、遠いフランスで十字軍の呼びかけが行われ、まもなく十字軍がシリアに押し寄せることになる。

十字軍の呼びかけに関わる図版:Passages d'outremer Fr5594, fol. 19r, Concile de Clermont
十字軍の呼びかけWikimedia Commons Jean Colombe · Public domain

ガザーリーは、ダマスクスの大モスクの尖塔の一室にこもって修行し、エルサレムの岩のドームを訪ね、メッカに巡礼した。彼が求めたのは、言葉と理屈で知る信仰ではなく、修行と体験を通じて神を味わうスーフィーの道だった。この時期以後に書かれた大著『宗教諸学の再興』は、礼拝や日々の暮らしの作法から、心の病の治し方、神への愛までを40の書にまとめたもので、イスラム世界で最も広く読まれた書物の一つになった。ガザーリーはおよそ10年後、乞われてニーシャープールの学院で再び教えたが、まもなく故郷のトゥースに戻り、1111年に死んだ。

ガザーリーの哲学批判には、およそ80年後、アンダルスのコルドバのイブン・ルシュドが、『矛盾の矛盾』という書で正面から反論した。イブン・ルシュドのイブン・ルシュドのアリストテレス注釈はラテン語に訳されて、中世ヨーロッパの大学に大きな影響を与えた。

ガザーリーの一撃でイスラム世界の哲学は息の根を止められ、ヨーロッパはイブン・ルシュドを通じて理性の道を進んだ、という説明がよく聞かれる。しかし近年の研究では、この見方は単純すぎるとされる。ガザーリー以後も、論理学や哲学は神学の中に取り込まれて学ばれ続け、イブン・スィーナーの哲学を受け継ぐ学者たちはイランなどで活躍した。ガザーリーは哲学そのものを否定したのではなく、論理学は神学にも欠かせない道具だと考えていた。彼が退けたのは、哲学者の結論の一部であって、理性で考えることそのものではなかった。

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