ルドヴィコ・ザメンホフ
概要
ビャウィストクの生まれ。ユダヤ人で、家庭ではイディッシュ語とロシア語を話した。父は語学教師である。町では四つの言語集団が反目しており、その原因を言葉に見た。学生のころから人工言語を作り始め、眼科医として開業しながら完成させた。1887年、妻の持参金で小冊子を出版する。運動が広がると、彼はその指導者であることを避け、言語は誰のものでもないと述べた。三人の子は、後にナチスによって殺されている。
所属
ロシア帝国関わったできごと(1)
エスペラントAD1887年7月26日 · 作った本文
ルドヴィコ・ラザロ・ザメンホフは1859年12月15日、当時ロシア帝国の一部だったビャウィストク(いまのポーランド北東部)に、ユダヤ人の家の子として生まれた。彼にはいくつもの名がある。ヘブライ語ではエリエゼル、ロシア語ではラザーリ、イディッシュ語ではレイゼル、そしてエスペラントではルドヴィコ・ラザロ。名前の多さそのものが、彼の生きた土地を表している。

ビャウィストクでは、住民の過半数がユダヤ人で、ほかにポーランド人、ロシア人、ドイツ人、ベラルーシ人が暮らしていた。同じ通りで四つも五つもの言葉が話され、人々は互いを疑い、憎み合っていた。この不幸な町で育ち、その原因は言葉の違いにあると感じた、という趣旨のことを彼はのちに手紙に書いている。もちろん、ユダヤ人への憎しみは言葉の問題だけではなく、いまから見れば単純すぎる見方だった。彼自身もやがてそれに気づく。それでも、彼はこの道を選んだ。
父マルクは語学の教師で、ドイツ語とフランス語を教え、ロシア当局のもとでヘブライ語やイディッシュ語の出版物を検閲する仕事もしていた。微妙な立場の人である。家ではイディッシュ語とロシア語が話された。息子は早くから、どの民族のものでもない共通の言葉を作ろうと考え始めた。

1878年12月、19歳になったばかりの彼は級友たちを集め、自作の言葉の最初の形を披露し、その言葉で作った歌をみなで歌ったと伝えられる。だが級友たちはすぐに興味を失った。父は息子の夢が人生を台無しにすると案じ、医学に専念させるため原稿を預かって、焼いてしまったとも言われる。
彼はモスクワ大学で医学を学び始め、のちにワルシャワ大学に移って1885年に卒業した。専門には眼科を選んだ。ほかの科より時間の融通が利き、言葉の仕事を続けられると考えたからだとされる。開業しても、患者の多くは貧しいユダヤ人で、暮らしは楽ではなかった。

1887年7月26日、彼はワルシャワで、ロシア語で書いた小さな本を出した(エスペラント)。費用は、婚約者クララの家が出した。著者名は「ドクトーロ・エスペラント」、希望する医師、という意味の筆名である。やがてこの筆名が、言葉の名前になった。本には16の文法規則と、900ほどの語根が載っていた。動詞の活用は例外なく、名詞はすべて「オ」で終わり、形容詞は「ア」で終わる。単語の多くはロマンス語やゲルマン語から採られた。誰でも数か月で読み書きできるように、と考えられていた。その年のうちにポーランド語、フランス語、ドイツ語の版が出て、翌年には英語の版が出た。
彼はこの言葉を自分のものにしなかった。権利を手放し、誰でも自由に使い、広めてよいとした。1905年、フランスのブローニュ・シュル・メールで最初の世界大会が開かれたとき、宣言が採択された。エスペラントの運動はいかなる政治や宗教の考えとも結びつかず、言葉の基礎は誰にも変えられない。ザメンホフは、自分はもはやこの言葉の主人ではない、という立場をとり、運動の指導者として祭り上げられることを避け続けた。

一方で、彼にはもう一つの構想があった。民族と宗教を一人ひとりの私事とし、その上に人類としてのつながりを置こうという考えで、のちに「ホマラニスモ」(人類人主義)と名づけた。1901年に名を伏せて発表したが、運動の内部からは、言葉の運動に宗教や政治を持ち込むなと強く反対された。若いころにかかわったシオニズムの側からも批判された。それでも彼は、この考えを生涯手放さなかった。
1914年、パリで世界大会が開かれる予定だった。だが会場へ向かう途中で第一次世界大戦が始まり、大会は中止になった。ドイツで足止めされた彼は、遠回りしてワルシャワに戻った。人と人を隔てる壁を取り除くために作った言葉を話す人々が、互いに殺し合っている。彼は打ちのめされた。1915年には各国の外交官にあてて、戦後の民族の共存についての構想を書いた。どの土地も、特定の民族のものではなく、そこに住む人々のものだ、という趣旨である。

1917年4月14日、ザメンホフはドイツ軍の占領下にあったワルシャワで、心臓の病のため死んだ。57歳だった。葬列には多くの人が集まった。
彼の3人の子は、みなホロコーストで命を奪われた。眼科医の息子アダムは1940年に処刑され、医師の娘ゾフィアと、エスペラントの教師として世界を回っていた娘リディアは、1942年にトレブリンカの絶滅収容所で殺された。リディアは戦争の気配が迫るなかアメリカからポーランドへ戻った。友人たちは止めたが、自分の家族と同胞のもとへ帰らなければならない、と彼女は言ったという。エスペラントそのものも、ナチスとスターリンの双方から危険な言葉として弾圧された。

それでもエスペラントは残った。話し手の数は数十万人から100万人ほどと推定され、確かな数は分からないが、生まれたときからこの言葉を話す人々もいる。彼の誕生日の12月15日は「ザメンホフの日」として、世界中の話し手たちに祝われている。