概要
ケーララのカーラティ。8歳で出家を望み、母が許さなかったので、川でワニに足を掴まれたと言って「死ぬ前に出家を許して」と頼んで許された、と伝える。ゴーヴィンダに学び、ヴァーラーナシーで教え、インド中を三度歩いて論客と討論した(クマーリラ、マンダナ・ミシュラとの論争が名高い)。四方に僧院(シュリンゲリ、プリー、ドヴァーラカー、バドリナート)を置いた。『ブラフマ・スートラ注』『ウパデーシャ・サーハスリー』。32歳で死んだ、と伝える。
関わったできごと(1)
シャンカラの不二一元論AD800年頃 · 説いた本文
生年と没年に、大きな幅がある。伝統的には788〜820年(32年)。現代の研究では、700年頃〜750年頃、あるいはもっと早い時期を推す説もある。彼の年代を決める外的な証拠が乏しく、彼が言及する思想家(クマーリラ、ダルマキールティ)と、彼を引用する後の文献の間で挟むしかない。
ケーララのカーラティ(コーチンの北東)。ナンブーディリ・バラモン。父シヴァグル、母アールヤーンバー。伝承では、両親が長く子を得られず、シヴァ神に祈って授かった。
早熟。3歳でマラヤーラム語を読み、5歳で入門(ウパナヤナ)、8歳でヴェーダを修めた、と伝記は言う。
父が早く死んだ。8歳で出家(サンニヤーサ)を望んだが、母が一人残されるので許さなかった。
ワニの話。川で水浴びしているとき、ワニに足を掴まれた。彼は岸の母に叫んだ。「母よ、私は死にます。せめて、死ぬ前に、出家を許してください。出家者として死にたい」。母が許すと言った瞬間、ワニが放した。彼は出家した。約束——「あなたの臨終には、必ず戻ります」。
(後年、彼はその約束を果たした。出家者は葬儀に関わらないという規範を破って、母の火葬を自分で行った。そのため、故郷の共同体から非難された、と伝わる。)
北へ。ナルマダー川の岸の洞窟で、ゴーヴィンダ・バガヴァットパーダに会った。ゴーヴィンダは、ガウダパーダ(『マーンドゥーキヤ・カーリカー』の著者。不二一元論の理論の枠を作り、仏教の中観と唯識の論理を吸収していた)の弟子。
ヴァーラーナシー。ここで教え始めた。最初の弟子サナンダナ(後のパドマパーダ。ガンガーの向こう岸から呼ばれて、水の上を歩いて渡り、その足の下に蓮が咲いた、という伝承から「蓮の足」の名)。
『ブラフマ・スートラ注(ブラフマスートラ・バーシュヤ)』。バーダラーヤナの『ブラフマ・スートラ』(ウパニシャッドの要旨を555の短い句にまとめたもの)への注釈。彼の思想の全体が、ここにある。
ディグヴィジャヤ(四方の征服)。インド中を歩いて、論客と公開の討論をした。仏教徒、ジャイナ教徒、ミーマーンサー学派、サーンキヤ学派、ニヤーヤ学派、そしてシャクティ派とタントラ。
マンダナ・ミシュラとの論争。マーヒシュマティー(あるいはビハール)。マンダナは、儀礼を重んじるミーマーンサーの大家。判定者は、マンダナの妻ウバヤ・バーラティー(サラスヴァティーの化身とされた学識の女性)。二人が首に掛けた花輪が萎れた方が負け、という取り決め。数日(伝承では15日から数か月)。マンダナが負けた。彼は約束通り出家して、シャンカラの弟子スレーシュヴァラになった。
その後、ウバヤ・バーラティーが言った。「妻は夫の半身である。半分に勝っただけでは、勝ちではない」。彼女は、カーマ(性愛)の技法について問うた。生涯、出家者だったシャンカラは答えられなかった。1か月の猶予を求め、その間に、死んだばかりのアマルカ王の体に自分の魂を移して(パラカーヤ・プラヴェーシャ)、王の妃たちと過ごし、経験を得て戻った、と伝説は語る。
四つの僧院。シュリンゲリ(南、カルナータカ。『ヤジュル・ヴェーダ』)、プリー(東、オリッサ。『リグ・ヴェーダ』)、ドヴァーラカー(西、グジャラート。『サーマ・ヴェーダ』)、ジョーシーマト/バドリナート(北、ヒマラヤ。『アタルヴァ・ヴェーダ』)。それぞれに弟子を長として置いた。いまも、その四つの座に「シャンカラーチャーリヤ」がいる。
十名(ダシャナーミー)。出家者を10の系統に組織した(サラスヴァティー、ティールタ、アーシュラマ、ギリ、パルヴァタ、サーガラ、ヴァナ、アラニヤ、プリー、バーラティー)。名前の最後に、その系統名をつける。
著作。確実なもの——『ブラフマ・スートラ注』、10のウパニシャッドの注(イーシャ、ケーナ、カタ、プラシュナ、ムンダカ、マーンドゥーキヤ、タイッティリーヤ、アイタレーヤ、チャーンドーギヤ、ブリハッド・アーラニヤカ)、『バガヴァッド・ギーター注』、『ウパデーシャ・サーハスリー』。彼の名で伝わる讃歌(『バジャ・ゴーヴィンダム』『ソーンダリヤ・ラハリー』)と入門書(『ヴィヴェーカ・チューダーマニ』)は、真作かどうか議論がある。
32歳で、ケーダールナート(ヒマラヤ)で死んだ、と伝える(カーンチープラムで、という別の伝承もある)。
その後。彼の後、ヴェーダーンタは主流になったが、彼の不二一元論に対して、ラーマーヌジャ(1017〜1137年)が制限不二一元論を、マドヴァ(1238〜1317年)が二元論を立てて、批判した。批判の中心は「世界と個我を虚妄とすれば、神への愛(バクティ)が成り立たない」。
19世紀末、ヴィヴェーカーナンダがシカゴの万国宗教会議(1893年)で語った「ヒンドゥー教」は、シャンカラの不二一元論を土台にしていた。それが、西洋で「インド哲学」として知られる形を作った。