できごと

五斗米道の始まり

Way of the Five Pecks of Rice
AD142年
重要度 4
五斗米道の始まりに関わる図版:Hanzhong baoheriver
Hanzhong baoheriver Wikimedia Commons Charlie fong · Public domain

概要

張陵が鶴鳴山で老君から啓示を受けた、と伝える。病は罪、罪を告白して治す、入信料は米五斗。孫の張魯が漢中を30年治めた。義舎で旅人に米と肉を無料で。曹操に降って、道教は残った。天師道。張天師は今も台湾にいる。

場所

鶴鳴山
30.90°N 103.50°E · 中国・四川省

関わった人(1)

張道陵AD34年–AD156年 · 始めた

本文

2世紀の半ば、後漢の朝廷では外戚と宦官が争い、地方の役人は重い税を取り立てていた。疫病もたびたび流行した。医者にかかれない人々にとって、病は祟りであり、罰であった。そうしたなかで、病を治すと説く宗教の集団が、東と西でほぼ同時に生まれる。東の華北では張角の太平道、西の四川では五斗米道である。

始めたのは張陵、のちに張道陵と呼ばれる人物だった(張道陵)。正史の『三国志』や『後漢書』が伝えるのは、彼が蜀(いまの四川)に移り住み、鵠鳴山で道を学んで道書を作り、人々を惑わした、という短い記事だけである。142年(漢安元年)、鶴鳴山に太上老君、つまり神となった老子が降りてきて、張陵に「正一盟威の道」を授け、天師の位を与えた、という話は、のちの道教の側の伝承である。年の142年も、この伝承による。

張道陵(五斗米道の始祖)の肖像
張道陵(五斗米道の始祖)の肖像Wikimedia Commons Werner, E. T. C. (1864-1954) · Public domain

教えの中心は、病と罪を結びつけることにあった。病気になるのは、本人が罪を犯したからである。だから治すには、罪を告白しなければならない。病人は静かな部屋に入って自分の過ちを思い返し、その名前と罪を書いた文書を三通作った。一通は山の上に置いて天に、一通は地に埋めて地に、一通は水に沈めて水に届ける。天・地・水の三つの神、三官に向けた手紙である。符(おふだ)を焼いて水に溶かして飲ませることも行われた。

入信する者は米を五斗納めた。五斗米道の名はここから来る。外から見れば、病気を口実に米を集める集団であり、敵対する者は「米賊」と呼んだ。『三国志』は、その教えを「鬼道」と書いている。

張道陵の肖像
張道陵Wikimedia Commons Hannah · Public domain

教団は組織を持っていた。入ったばかりの信者を鬼卒と呼び、信者を率いる者を祭酒と呼んだ。大勢を率いる者はさらに上の祭酒になる。のちの道教の書物は、四川一帯に二十四の「治」という教区が置かれたと伝えるが、これがいつ整ったのかは分からない。張陵の死後、教団は子の張衡、孫の張魯へと受け継がれた。張陵が123歳で天に昇ったという話も、道教の伝承である。

教団が一つの国のようになったのは、孫の張魯のときだった。後漢の末、益州(四川)の長官となった劉焉は、張魯の母が道術に通じていて家に出入りしていた縁から、張魯を軍の役職につけ、北の漢中へ送り出した。191年ごろのことである。張魯は漢中の太守を倒して道を封じ、朝廷との連絡を絶った。劉焉が死んで子の劉璋が継ぐと、劉璋は張魯の母と弟を殺し、両者は敵になる。張魯はそのまま漢中に独立した。

張魯の漢中は、役人を置かず、祭酒が民を治めた。祭酒は道に「義舎」という小屋を建て、米と肉を置いた。旅人は腹に見合うだけ取ってよい。取りすぎれば鬼が病を与える、とされた。罪を犯した者は三度までは許し、それでも改めなければ罰した。小さな罪には、道を百歩修理させることで償わせたともいう。春と夏には生き物を殺すことを禁じ、酒も禁じた。『三国志』は、民も異民族もこの統治を便利とした、と書いている。宗教の集団が、国より先に、税と福祉と裁きを引き受けていたことになる。漢中の支配はおよそ30年続いた。

同じころ、東の太平道は184年に黄巾の乱を起こし、朝廷の軍に鎮められた。同じように病と罪を説いた二つの教団は、ここで道が分かれる。

215年、曹操が大軍で漢中に攻め込み、陽平関を破った。張魯は南の山地へ逃れる前、部下が蔵を焼き払おうとするのを止め、「蔵の宝は国家のものだ」と言って封をして去ったと『三国志』は伝える。やがて張魯は曹操に降った。曹操は彼を鎮南将軍とし、閬中侯に封じて一万戸を与え、五人の息子もそれぞれ列侯にした。さらに張魯の娘を、自分の息子の妻に迎えている。反乱の首謀者ではなく、客として遇したのである。

この扱いが、教団を生き延びさせた。曹操は漢中の信者を大勢北へ移したため、教えは長安や洛陽、鄴の近くへ広がり、天師道と呼ばれるようになる。4世紀の東晋では、書家の王羲之の一族のような名門の貴族までが天師道を奉じていた。5世紀には北魏の寇謙之が教えを改めて皇帝の帰依を受け、南朝では陸修静や陶弘景が経典を整えた。こうして、ばらばらの信仰や仙人の術が、老子を祖とする一つの宗教、道教にまとまっていく。

張陵の子孫を名乗る家は、のちに江西省の竜虎山に住み、代々「天師」を称した。宋や元の王朝はこの家に称号を与え、正一教という一派の中心になった。63代の天師とされる張恩溥は、1949年、国共内戦の末に台湾へ渡り、その地で没した。その後継ぎをめぐっては、いまも複数の人物が名乗りを上げている。

一つ分かっていないことがある。『三国志』の注に引かれた別の書物は、五斗米道を始めたのは張陵の系統ではなく、張魯とともに漢中を攻めた張脩という人物だった、と書いている。張魯はのちに張脩を殺して、その兵と教えを奪ったのだという。張衡の書き誤りではないかとする見方もあり、どちらが本当の始まりなのかは決着していない。

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