できごと

ヒーラ細胞

HeLa cells
AD1951年
重要度 5
ヒーラ細胞に関わる図版:HeLa-IV
HeLa-IV Wikimedia Commons National Institutes of Health (NIH) · Public domain

概要

ジョンズ・ホプキンス病院で、31歳の黒人女性ヘンリエッタ・ラックスが子宮頸がんの治療を受けた。担当医が、本人に知らせず腫瘍の一片を研究室に送った。その細胞は、それまでのどの細胞株とも違い、培養皿の中で無限に増え続けた。彼女はその年に死に、細胞は生き続けた。ポリオワクチンの試験、遺伝学、宇宙実験、無数の論文。家族が事実を知ったのは20年以上後で、その間、医療費に苦しんでいた。同意とは何かを問う事件になった。

場所

ボルティモア
39.29°N -76.61°E · アメリカ・メリーランド州

関わった人(1)

ヘンリエッタ・ラックスAD1920年8月1日–AD1951年10月4日 · 由来となった

本文

ヘンリエッタ・ラックスは1920年、ヴァージニア州ローノークに生まれた。出生のときの名はロレッタ・プレザントで、ヘンリエッタと呼ばれるようになった経緯ははっきりしない。4歳のとき、母が10人目の子を産んだあとに亡くなり、彼女はクローバーという田舎町の祖父のもとへ引き取られた。祖父の家は、かつて奴隷が暮らした小屋だったと伝えられる。彼女の祖先は、その土地のタバコ農園で働かされた奴隷だった。

ヘンリエッタはタバコ畑で働いて育ち、同じ家で育った従兄のデイヴィッド・ラックスと1941年に結婚した。そのころには子が二人いた。同じ年、一家は造船所や製鉄所の仕事を求めて、メリーランド州ボルティモア近郊の黒人の町ターナー・ステーションへ移った。子は5人になった。

ヒーラ細胞の多光子蛍光顕微鏡像。ゴルジ体(オレンジ)、微小管(緑)などを可視化
ヒーラ細胞の多光子蛍光顕微鏡像。ゴルジ体(オレンジ)、微小管(緑)などを可視化Wikimedia Commons National Institutes of Health (NIH) · Public domain

1951年1月29日、31歳の彼女は、下腹部のしこりと不正出血を訴えてジョンズ・ホプキンス病院を訪れた。ボルティモアで、黒人の患者を診る数少ない大病院だった。診察は有色人種用の病棟で行われた。婦人科医が子宮頸部に腫瘍を見つけ、生検の結果は子宮頸がんだった。

当時の治療は、ラジウムの入った管を患部に当てるものだった。2月、最初のラジウム治療のとき、外科医が腫瘍の組織と正常な組織を小さく切り取った。本人には知らされず、同意も取られていない。当時のアメリカで、これは違法ではなかった。治療を受ける患者の組織を研究に回すのは、ありふれた慣行だった。

ヒーラ細胞の顕微鏡写真
ヒーラ細胞の顕微鏡写真Wikimedia Commons National Institutes of Health (NIH) · Public domain

組織は、同じ病院の研究者ジョージ・ゲイの研究室に届けられた。ゲイは妻のマーガレットとともに、人の細胞を体の外で増やし続ける、つまり死なない細胞の系統を作ることに20年以上挑み、失敗を続けていた。体から取り出した細胞は、ふつう培養皿の中で何回か分裂すると死んでしまう。ところがヘンリエッタのがん細胞は死ななかった。一日ほどで数が倍になり、増え続けた。ゲイは慣例に従って、患者の姓と名の最初の2文字ずつを取り、試験管に「ヒーラ(HeLa)」と書いた。

ヘンリエッタのがんは、異常な速さで全身に広がった。1951年10月4日、彼女は31歳で死んだ。遺体はクローバーの一族の墓地に、墓石の無いまま葬られた。細胞のほうは、生き続けた。

ゲイは、ヒーラ細胞を求める研究者に無償で分けた。最初の大きな仕事は、ポリオだった。ワクチンを試すには、ウイルスを大量に増やし、それが細胞を壊すかどうかを確かめる細胞が要る。ヒーラ細胞はポリオウイルスに感染しやすく、大量に増やせた。1953年ごろ、アラバマ州の黒人の大学、タスキーギ研究所に細胞を量産する施設が作られ、全米の研究所へ送り出した。ソークのポリオワクチンの大規模な試験を支えたのは、この細胞である。同じアラバマのタスキーギでは、タスキーギ梅毒研究がまだ続いていた。

ソークのポリオワクチンに関わる図版:Poliodrops
ソークのポリオワクチンWikimedia Commons USAID · Public domain

ヒーラ細胞は、その後の生物学と医学のあらゆるところで使われた。ウイルスの研究、がんの研究、放射線や毒物の影響を調べる実験、薬の候補を選び出す試験。冷凍しても生き返ることが分かり、細胞を郵便で送れるようになった。ヒトの細胞の標準として使われたことで、細胞の培養そのものが研究の道具として定着した。ドイツのハラルト・ツア・ハウゼンは、ヒーラ細胞の中にヒトパピローマウイルスの遺伝子を見つけ、このウイルスが子宮頸がんを起こすことを示して、2008年にノーベル医学生理学賞を受けた。子宮頸がんのワクチンにつながる発見だった。ヒーラ細胞を使った論文は、数万本を超える。

ただ、強すぎることが問題も生んだ。ヒーラ細胞は、ほかの細胞の培養にわずかに混じっただけで、それを乗っ取ってしまう。1960年代の終わりから70年代にかけて、別の細胞だと信じられていた多くの系統が、実はヒーラ細胞だったと分かり、大きな騒ぎになった。

ヒーラ細胞の顕微鏡写真
ヒーラ細胞の顕微鏡写真Wikimedia Commons National Institutes of Health (NIH) · Public domain

家族は、何も知らなかった。1973年、この混入の問題を調べる研究者たちが、ヒーラ細胞を見分ける手がかりを得るため、ラックス家の人々に血液の提供を求めて連絡してきた。「母親の細胞が生きている」と言われても、家族には何のことか分からなかった。がんの検査をされていると思った者もいた。夫のデイヴィッドは字が読めなかった。娘のデボラは、母の細胞が宇宙へ行った、核実験に使われた、という断片的な話に、長く苦しんだ。母がどこかで痛みを感じているのではないかと考えたのである。

細胞を売る会社が利益を上げる一方で、家族には一切の金銭が渡らなかった。家族の何人かは医療保険を持てず、医者にかかれずにいた。1990年代から、研究者や記者がこの話を掘り起こし始めた。2010年、レベッカ・スクルートの『ヘンリエッタ・ラックスの不死なる人生』が出版されて広く読まれ、著者は家族のための基金を作った。同じ2010年、ヘンリエッタの墓に、初めて墓石が置かれた。

ヒーラ細胞の顕微鏡写真
ヒーラ細胞の顕微鏡写真Wikimedia Commons National Institutes of Health (NIH) · Public domain

2013年、ドイツの研究チームが、ヒーラ細胞の全ゲノムの配列を家族の同意なしに公開した。ゲノムからは、子孫の病気のなりやすさまで読み取れるおそれがある。抗議を受けてデータは取り下げられ、同じ年、アメリカ国立衛生研究所と家族のあいだで合意が結ばれた。ヒーラ細胞のゲノムの情報を使いたい研究者は審査を受け、その委員会にラックス家の代表が加わる。2021年、家族はヒーラ細胞を売る企業を訴え、2023年に和解した。

ヒーラ細胞の話は、同意とは何かを問い続けている。体から取り出された組織は誰のものか。研究に使うとき、本人に何を知らせ、何を尋ねるべきか。いまでは、組織を研究に使う前に説明して同意を得ることが原則になっている。だが、その原則が当たり前になる前に、ひとりの黒人女性の細胞が、名前も知らされないまま、世界中の研究室で増え続けていた。

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