トマス・モア
概要
法律家、下院議長、大法官。娘たちにギリシア語を教え、エラスムスの友人で、『ユートピア』を書き、異端者を焼かせた。王の離婚と教会首長を認めず、ロンドン塔で15か月、斧で死んだ。「髭は反逆をしていない」と髭をよけた。
関わったできごと(2)
トマス・モア『ユートピア』AD1516年 · 著者トマス・モアの処刑AD1535年7月6日 · 処刑本文
トマス・モアは、1478年2月7日、ロンドンのミルク・ストリートに生まれた。父ジョン・モアは法律家で、のちに王座裁判所の判事にまでなった人である。モアはロンドンの名門校で学んだあと、12歳ごろ、カンタベリー大司教で大法官でもあったモートンの屋敷に小姓として住み込んだ。食卓で客に機知に富んだ受け答えをする少年を見て、大司教は、この子はやがて驚くべき人物になるだろうと言った、と娘婿ローパーの伝記は伝えている。モートンはのちに『ユートピア』の中にも好ましい人物として登場する。

オックスフォード大学で2年ほど学んだが、父の意向で呼び戻され、ロンドンの法学院で法律を修めて弁護士になった。同時に、彼は修道士になることを真剣に考えていた。ロンドンの厳格なカルトゥジオ会の修道院のそばで4年ほど、祈りと断食の暮らしを送ったともいわれる。毛の粗い苦行用の肌着を、生涯、服の下に着けていた。だが彼は最終的に修道院ではなく、世俗の中で生きる道を選んだ。
1505年、ジェーン・コルトと結婚した。本当は妹のほうに惹かれていたが、姉が先を越されて恥をかかないよう、姉を選んだ、とローパーは書いている。4人の子が生まれた。1511年にジェーンが死ぬと、ひと月もたたずに年上の未亡人アリスと再婚した。幼い子供たちに母が必要だったからである。アリスは口やかましく、夫の理想主義を笑ったが、家をよく切り盛りした。

モアの家は、学問の家だった。当時としては珍しく、息子だけでなく娘たちにもラテン語とギリシア語、天文学や哲学を学ばせた。長女マーガレットのラテン語は、ヨーロッパの学者を驚かせるほどだった。オランダの人文主義者エラスムスは親友で、モアの家に滞在して『痴愚神礼讃』を書き、その題にはモアの名を掛けた言葉遊びが込められている。
若いころから政治の世界にも入った。1504年には下院議員として国王ヘンリー7世の課税に反対し、怒った王は代わりに父を投獄して罰金を払わせた、と伝えられる。ロンドン市の司法の役職に就き、貧しい人の弁護を引き受けて信頼を集めた。1515年、通商交渉の使節としてフランドルに渡り、その滞在中に書き始めたのが、翌1516年に出たラテン語の『ユートピア』である(トマス・モア『ユートピア』)。架空の旅人が語る、海の彼方の島の国。そこでは私有財産がなく、人々は1日6時間働き、余暇を学問にあて、宗教にも寛容である。囲い込みで農民を追い出し、羊が人間を食う、と彼が皮肉ったイングランドの現実への痛烈な批判だった。島の名は、ギリシア語でどこにもない場所を意味する。

ヘンリー8世が即位すると、モアは王に重く用いられた。1518年に枢密顧問官となり、1521年にナイトに叙され、1523年には下院議長として、議員が恐れずに意見を述べられるよう、言論の自由を王に願い出た。王はしばしば予告なくチェルシーのモアの屋敷を訪れ、彼の肩に腕を回して庭を歩いた。だがモアは娘婿に、もし私の首でフランスの城が一つ手に入るなら、王は迷わずそうなさるだろう、と語っていた。
1529年10月、王の離婚の交渉に失敗して失脚した枢機卿ウルジーの後を継ぎ、大法官となった。法の世界の最高の地位である。同じ時期、彼は大陸から広がってきたルターの宗教改革に、激しく立ち向かった。英語の聖書を訳したティンダルらと、何十万語にも及ぶ論争の文書を書いて争い、異端の書物を密かに持ち込む人々を厳しく取り締まった。彼の大法官の在任中に、6人のプロテスタントが火刑に処された。モア自身は、異端者を罰することを正しい務めと考え、自分で書いた墓碑銘にも、異端者に容赦しなかったことを記している。寛容な島を描いた著者と、異端を焼く大法官。二つの顔をどう理解するかは、今も議論が分かれている。

ヘンリー8世は、男子の跡継ぎを産めない王妃キャサリンとの結婚を無効にして、アン・ブーリンと結婚しようとしていた。教皇がこれを認めないと、王はイングランドの教会を教皇から切り離し、自らをその長とする道を進んだ。1532年5月、聖職者たちが王に屈した翌日、モアは健康を理由に大法官を辞めた。収入を失い、一家は貧しくなった。1533年のアン・ブーリンの戴冠式にも彼は姿を見せなかった。
1534年、議会は、アンとの子を王位の継承者とする法律を作り、臣民にそれを認める誓いを求めた。モアは、継承そのものは議会が決めてよいと認めながらも、教皇の権威を否定する文言を含む誓いを拒んだ。4月17日、ロンドン塔に送られた。同じ年、国王を教会の首長とする国王至上法が定められた。塔の中で、彼は15か月を過ごした。愛娘マーガレットが何度も面会に訪れ、誓いを立てて家に帰ってほしいと懇願したが、彼は首を縦に振らなかった。理由を語れば罪に問われるので、彼は沈黙を守った。塔の中でも祈りの本と慰めの書を書き続け、紙が取り上げられると、炭で娘に手紙を書いた。

1535年7月1日、ウェストミンスターで裁判が開かれた。決め手になったのは、塔で彼と会話した法務官リチャード・リッチの、モアが王の首長権を否定したという証言だった。モアはそれを偽りだと退け、陪審が有罪を出したあと、ようやく沈黙を破って、国王が教会の長になることは神の法に反すると述べた。7月6日の朝、タワー・ヒルで首を刎ねられた(トマス・モアの処刑)。57歳だった。私は王のよき僕として死ぬ、だがまず神の僕として、と語ったと伝えられる。首を台に載せるとき、髭は反逆をしていない、と言って髭を脇によけたという話も残る。首はロンドン橋に晒され、のちにマーガレットが引き取った。
カトリック教会は1935年に彼を聖人とし、2000年には政治家の守護聖人とした。一方で、1918年、ロシア革命の直後のモスクワでは、レーニンの命で建てられた社会主義の先駆者たちの記念碑に、彼の名も刻まれた。私有財産のない島を描いた人として、である。

ドイツの画家ホルバインは、1527年、大法官になる前の彼を描いた。毛皮の襟と金の鎖をまとい、無精髭の残る顔に、静かで鋭いまなざしがある。この肖像はいまニューヨークのフリック・コレクションにあり、偶然にも、同じ部屋の向かいには、彼を死に追いやった王の側近トマス・クロムウェルの肖像が掛けられている。