憲法十七条
概要
「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ」。「篤く三宝を敬へ」。「詔を承りては必ず謹め」。役人の心得。儒教と仏教と法家。憲法という名だが、憲法ではない。『日本書紀』が全文を載せ、後世の作という説が江戸時代から消えない。
場所
34.47°N 135.82°E · 日本・奈良県
関わった人(1)
聖徳太子AD574年–AD622年 · 作ったと伝える本文
『日本書紀』は推古12年(604年)4月3日の条に、「皇太子、親ら肇めて憲法十七条を作りたまふ」と書き、続けて十七の条文を全文載せている。皇太子とは厩戸皇子、のちに聖徳太子と呼ばれる人物である。日本で最初の成文の「おきて」として知られるこの文章は、しかし近代の憲法とはまったく性格が違う。国の仕組みを定めたものではなく、天皇に仕える役人たちが心がけるべきことを並べた訓戒である。
書紀の語る推古朝は、改革の時代だった。女帝推古天皇のもとで、厩戸皇子と大臣蘇我馬子が政治を動かしたとされる。蘇我氏は587年、仏教の受け入れをめぐって物部氏を滅ぼし(蘇我氏と物部氏の戦い)、朝廷の第一の家になっていた。中国では589年に隋が南北を統一し、強大な帝国が東アジアに現れた。中国の史書『隋書』によれば、600年に倭から使いが来たが、その国の政治のあり方を聞いた隋の文帝は「道理に合わない」として改めるよう諭したという。書紀はこの600年の使いを記していないが、603年の冠位十二階、604年の憲法十七条、607年の遣隋使と、中国の目に耐える国の形を整えようとする動きが続く。

前の年に定められた冠位十二階は、それまでの氏族ごとの世襲の地位とは別に、朝廷に仕える個人に位を与える仕組みだった。位を与えられた者が、氏族の利害ではなく天皇と朝廷のために働くには、何を心得ればよいのか。十七条は、その問いに答える文章として読むことができる。条文の多くが「群卿百寮」、つまり役人たち全体に呼びかける形をとっているのもそのためである。
十七条の第一条は、よく知られた「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ」で始まる。人びとが党派をつくって争わず、上と下が睦まじく論じ合えば、物事は自然に筋が通る、と続く。第二条は「篤く三宝を敬へ」。三宝とは仏・法・僧のことで、仏教をよりどころとせよと説く。第三条は「詔を承りては必ず謹め」。君は天、臣は地にたとえられ、天皇の命令には必ず従えと命じる。

四条以下は、役人の日々の勤めに具体的に踏み込む。礼を根本とせよ(第四条)、賄賂を受けず公平に訴えを裁け(第五条)、悪を懲らし善を勧めよ(第六条)、朝は早く出仕して遅く退け(第八条)、功績と過ちを見極めて賞罰を正しく行え(第十一条)、地方の役人は民から勝手に取り立てるな(第十二条)、他人を妬むな(第十四条)、私を捨てて公に向かえ(第十五条)、民を使役するのは農作業の暇な時期にせよ(第十六条)。
なかでも読む者の目をとめるのは第十条である。怒りを捨て、人が自分と違うことを怒るな、と説いたあと、人にはみな心があり、それぞれに思うところがある、自分が必ずしも聖人なのではなく、相手が必ずしも愚か者なのでもない、ともに凡夫にすぎない、と言う。役人の心得としては異例なほど、人間の見方に踏み込んだ一節である。最後の第十七条は「夫れ事は独り断むべからず。必ず衆と与に宜しく論ふべし」。大事なことは一人で決めず、多くの者と論じよ。最初の条の「和」と最後の条の「衆と論ふ」が、全体を挟んで呼び合っている。
文章は、中国の古典からの言葉で織り上げられている。『論語』『礼記』『孝経』などの儒教の書、『管子』『韓非子』のような法家の書、それに仏教の考えが混ざり合う。「憲法」という語そのものも中国の古い書物に見え、「おきて」「のり」という意味だった。この語が西洋の国家の基本法の訳語に使われるようになったのは明治になってからで、十七条の「憲法」とは指すものが違う。
この十七条を本当に厩戸皇子が作ったのかは、江戸時代から疑われてきた。考証学者の狩谷棭斎は早くに疑いを示し、昭和の初めには歴史家の津田左右吉が、第十二条に出てくる「国司」が推古朝にはまだなかった地方官の名であることなどを挙げ、後の時代の作だと論じた。書紀が編まれた720年(『日本書紀』の完成)のころに、編者が太子の事績として書いたのではないか、というのである。近年も、条文の漢文に日本語話者に特有の癖があることを手がかりに、書紀の編纂のころの文章とみる研究がある。
一方で、条文の内容は、律令が整った後の時代よりも素朴な段階の政治を映しているとして、太子の時代に何らかの原型があったとみる研究者も少なくない。「国司」も後世の書き換えにすぎないという反論がある。決着はついていない。厩戸皇子その人の業績についても、書紀が後から理想の聖人として描いた部分が大きいという議論があり、教科書の書き方が議論になったこともある。
それでも、この十七条が日本の歴史の中で特別な重みを持ってきたことは確かである。「和を以て貴しと為す」は、日本人の性格や組織のあり方を語るときに繰り返し引かれてきた。1889年の大日本帝国憲法の発布、1946年の日本国憲法と、近代の憲法が作られるたびに、日本で最初の「憲法」としてこの十七条が思い起こされた。

ただ、第一条の「和」は、黙って波風を立てないことを勧める言葉ではない。条文を最後まで読めば、和とは、上下が睦まじく論じ合い、一人で決めず衆と論じることだと説いている。千四百年前の役人への訓戒として書かれた言葉が、太子の作であるかどうかを離れて、議論のあり方を問う言葉として今も読み返されている。