パウロ
概要
キリスト教徒を捕らえて回っていた律法学者が、ダマスクスへの道で回心した。割礼を求めずに異邦人へ説き、地中海を三度回った。その手紙が新約聖書の最も古い部分になる。
所属
ローマ関わったできごと(2)
ステファノの殉教AD34年頃 · 上着を預かっていたパウロの伝道旅行AD47年 · 伝道本文
紀元5年頃、小アジアの南東、キリキア地方の町タルソスに生まれたとされる。タルソスはギリシア語が話され、哲学の学校もある豊かな商業都市だった。パウロはそこに住むユダヤ人の家の子で、ヘブライ語の名をサウロといった。自分の手紙では、イスラエルの民のベニヤミン族の出で、律法を厳しく守るファリサイ派に属していたと書いている。使徒言行録によれば、生まれながらにローマの市民権を持っていた。手に職として天幕作りを身につけ、後の旅のあいだもその仕事で生活費を稼いだ。

若くしてエルサレムに出て、名高い律法学者ガマリエルのもとで学んだと使徒言行録は伝える。そのころエルサレムでは、十字架にかけられたナザレのイエスを救い主と信じる人々が、小さな集団を作り始めていた(イエスの処刑)。神に呪われた死に方をした男を救い主と呼ぶことは、律法に熱心なパウロには許しがたいことだった。パウロは自ら書いているように、その集団を激しく迫害した。
使徒言行録は、ギリシア語を話すユダヤ人の信者ステファノが石で打ち殺されたとき、殺す人々が脱いだ上着をサウロが預かっていた、と書いている(ステファノの殉教)。その後パウロは、ダマスクスにいる信者たちを捕らえるための許可状を手に、北へ向かった。

その途中で、パウロの人生はひっくり返る。使徒言行録によれば、ダマスクスに近づいたとき、突然天からの光に照らされて地に倒れ、なぜ私を迫害するのか、という声を聞いた。声の主は自分がイエスであると名乗った。パウロは目が見えなくなり、三日間、飲みも食べもしなかった。ダマスクスの信者アナニアが手を置くと、目から鱗のようなものが落ちて見えるようになったという。日本語の「目から鱗が落ちる」という言い回しは、この場面から来ている。ただしパウロ自身は手紙の中で、神が御子を自分のうちに示された、と短く語るだけで、道の上の光の話は書いていない。
回心の後、パウロはアラビアに退き、3年たってからエルサレムに上ってイエスの弟子ペトロに会い、15日間ともに過ごした。その後は故郷のキリキアやシリアで活動し、やがてシリアの大都市アンティオキアの信者の共同体に、仲間のバルナバとともに迎えられた。この町で初めて、信者たちは「キリスト者」と呼ばれるようになったと使徒言行録は記す。

最大の問題は、割礼だった。イエスを信じる者になるには、まずユダヤ人になる必要があるのか。男子は割礼を受け、食べ物の決まりを守らなければならないのか。エルサレムの信者の中には、そうすべきだと考える人々が多かった。パウロは、人はキリストを信じる信仰によって神の前に正しいとされるのであって、律法の行いによるのではない、と主張した。紀元48年か49年頃、パウロとバルナバはエルサレムに上り、ペトロやイエスの兄弟ヤコブらと話し合った。結論は、ユダヤ人でない信者に割礼を求めない、というものだった。この決定が、ユダヤ教の一派として始まった運動を、民族を問わない宗教へ開く大きな一歩になった。もっとも、その後もアンティオキアで食事の席をめぐってパウロがペトロを面と向かって非難するなど、対立はすぐには収まらなかった。
使徒言行録は、パウロの旅を三回の伝道旅行として描いている(パウロの伝道旅行)。小アジアの内陸を歩き、エーゲ海を渡ってギリシアのフィリピ、テサロニケ、アテネ、コリントへ。コリントには1年半とどまり、小アジアのエフェソには2年以上いた。行く先々で、まずユダヤ人の会堂で語り、受け入れられないとユダヤ人以外の人々に向かった。小さな信者の集まりを作っては次の町へ移った。

旅は危険の連続だった。パウロ自身が手紙に数え上げている。ユダヤ人から39回の鞭打ちを5回受け、棒で打たれたことが3回、石を投げつけられたことが1回、難船したことが3回、一昼夜海に漂ったこともある。川の難、盗賊の難、飢えと渇き、寒さと裸。体には「とげ」と呼ぶ持病を抱え、取り去ってくれるよう三度祈ったが、私の恵みはあなたに十分である、という答えを得たと書いている。
離れた町で問題が起きるたびに、パウロは手紙を書いた。仲間割れをしているコリントの信者へ、割礼を受けろと言う人々に惑わされているガラテヤの信者へ、まだ行ったことのないローマの信者へ。紀元50年頃に書かれたとされる「テサロニケの信徒への手紙一」は、新約聖書の中で最も古い文書と考えられている。福音書はどれも、パウロの手紙より後に書かれた。新約聖書にはパウロの名を冠した手紙が13通あるが、本人が書いたことがほぼ確かとされるのは、ローマ、コリント(二通)、ガラテヤ、フィリピ、テサロニケ(一通目)、フィレモンへの7通で、残りは弟子たちが師の名で書いたものと考える研究者が多い。

その手紙には、後の世に繰り返し引かれる言葉が多い。愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない、で始まるコリントの信徒への手紙一の一節は、今も結婚式でよく読まれる。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない、あなたがたは皆キリストにあって一つだから、とガラテヤの信者に書いた。
やがてパウロは、各地の信者から集めた献金を携えてエルサレムに戻った。ところが神殿で、律法に背く者を連れ込んだと疑われて騒ぎになり、ローマの兵に保護される形で捕らえられた。地中海沿岸のカイサリアで2年間監禁された後、ローマ市民としての権利を使って皇帝に直接訴えた。ローマへ護送される船は嵐に遭い、マルタ島で難破した。ようやくローマに着いたパウロは、番兵つきの借家で2年間暮らしながら、訪ねてくる人々に教えを説いた。使徒言行録の記述は、ここで終わっている。
その後のことは、確かな記録がない。紀元64年のローマ大火の後に皇帝ネロが信者たちを迫害したころ、パウロもローマで処刑されたと伝えられる。ローマ市民だったので、十字架ではなく剣で首を斬られたという。60年代の半ばのことと考えられている。ローマの城壁の外にある聖パウロ大聖堂は、その墓の上に建てられたとされる。

パウロはイエスに生前会ったことがない。それでも、ユダヤの一地方で生まれた信仰を地中海世界へ運び、その意味を言葉にしたのはパウロだった。「キリスト教の第二の創始者」と呼ばれることもある。300年あまり後のアウグスティヌスはパウロの手紙を読んで回心し、1500年後のマルティン・ルターは、ローマの信徒への手紙の、人は信仰によって義とされる、という一句から宗教改革へ進んだ。教会の歴史の大きな曲がり角には、たいていパウロの手紙が開かれている。