できごと

グレゴリオ暦への改暦

Inter gravissimas
AD1582年10月15日
重要度 5
ロシア帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国ノガイ・オルダサファヴィー朝ポーランド・リトアニア共和国ポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェーヒヴァ・ハン国スウェーデンソンガイ帝国カザン・ハン国マリ帝国神聖ローマ帝国フランス王国サーミスペインカネム=ボルヌWatassid MoroccoダルフールEngland and Irelandアストラハン・ハン国クリム・ハン国ハドラマウトヴェネツィア共和国Mahraワダイ王国スコットランドGharraHabsburg NetherlandsNaplesプロイセンAD1582年10月15日ローマ
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概要

ユリウス暦の一年は365.25日で、実際より約11分長い。千二百年で十日ずれ、復活祭の基準になる春分が三月十一日に来ていた。教皇グレゴリウス13世の勅書により、1582年10月4日木曜の翌日を10月15日金曜とした。十日が消えた。閏年の規則も直した。百で割れる年は平年、四百で割れる年は閏年。カトリック諸国が先に従い、プロテスタントと正教の国は遅れた。イギリスは1752年に十一日を消し、日本は1873年、ロシアは1918年、ギリシアは1923年である。

場所

ローマ
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州

関わった人(1)

クリストファー・クラヴィウスAD1538年3月25日頃–AD1612年2月6日 · 暦の委員会

本文

紀元前45年、カエサルは一年を365日とし、四年に一度だけ閏日を置く暦を定めた(ユリウス暦の施行)。一年の長さは平均365.25日になる。ところが、春分から次の春分までの実際の一年はおよそ365.2422日しかない。差は一年あたり十一分ほどで、暮らしの上では気にもならない。だがこの差は積み重なり、百二十八年でほぼ一日、千二百年あまりでおよそ十日になる。

困ったのは教会だった。325年のニケーア公会議以来、キリスト教のもっとも大切な祝日である復活祭は、春分の後の最初の満月の、その次の日曜日に祝うことになっていた。そして教会は春分を3月21日に固定して計算していた。暦がずれていくと、教会の計算上の春分と、天の実際の春分が離れていく。十六世紀には、実際の春分は3月11日ごろに来ていた。復活祭の日取りが天文学的に間違っていることになり、それに連動する移動祝日もすべてずれていた。

ニケーア公会議に関わる図版:Μιχαήλ Δαμασκηνός - Α΄ Οικουμενική Σύνοδος 7741
ニケーア公会議Wikimedia Commons C messier · Public domain

ずれそのものは早くから気づかれていた。八世紀のベーダはすでに暦と天のずれに触れており、十三世紀にはロジャー・ベーコンが教皇に改暦を求める意見を書き送っている。十五世紀のコンスタンツ公会議、十六世紀初めの第五ラテラン公会議でも議論されたが、結論は出なかった。どこから何日削り、以後どう補正するかを決めるには、天文学の確かな数字と、教会の権威の両方が要ったからである。トレント公会議は、暦の改正を教皇に委ねることを決めた。

具体的な案を書いたのは、南イタリアのカラブリア出身の医師で天文学者のアロイシウス・リリウス(イタリア名ルイジ・リリオ)である。彼は案が採用されるのを見ずに1576年に世を去り、弟のアントニオが原稿をローマへ届けた。原稿そのものは失われており、内容は委員会がまとめて各地の学者に配った要約を通してしか分からない。

教皇勅書『インテル・グラヴィッシマス』の冒頭ページ
教皇勅書『インテル・グラヴィッシマス』の冒頭ページWikimedia Commons Gregory XIII · Public domain

リリウスの案の柱は三つあった。第一に、これまでにずれた十日を一度に消す。第二に、今後ずれないように閏年の規則を改める。西暦の年が百で割り切れる年は閏年にせず、ただし四百で割り切れる年は閏年のままにする。1600年と2000年は閏年、1700年、1800年、1900年は平年になる。こうすると四百年に閏日は九十七回となり、一年の平均は365.2425日になる。実際との差は一日の一万分の三ほどで、ずれが一日に積もるまでに三千年あまりかかる。第三に、復活祭の日取りを決めるための月の満ち欠けの表を、長い年月にわたって合うように作り直した。十日を消すことは誰にでも思いつくが、月の表を作り直すところにこそリリウスの独創があったと評価されている。

教皇グレゴリウス13世は改暦のための委員会を設けた。その中心で働いたのがイエズス会の数学者クリストファー・クラヴィウスで、リリウスの案を検討して細部を詰め、改暦の後には批判に答える長い著作を書き続けた。批判は多かった。フランスの数学者ヴィエトは月の表の誤りを突き、天文学者の中にも計算の不備を言い立てる者がいた。

クリストファー・クラヴィウスの肖像
クリストファー・クラヴィウスWikimedia Commons Francesco Villamena · Public domain

1582年2月24日、教皇は勅書を出した。冒頭の言葉をとって「インテル・グラウィッシマス(もっとも重大な務めのうちに)」と呼ばれる。定められたとおり、1582年10月4日木曜日の翌日は、10月15日金曜日となった。曜日の並びは途切れず、日付だけが十日飛んだ。十月が選ばれたのは、動かせない大きな祝日が少ない時期だったからだといわれる。

この日に新しい暦へ移ったのは、イタリアの諸国、スペイン、ポルトガル、ポーランド・リトアニアと、スペインやポルトガルの植民地だった。フランスは同じ年の12月9日の翌日を12月20日とし、カトリックのドイツ諸邦は翌年に続いた。

プロテスタントの国々は、教皇の権威による改暦に強く反発した。太陽と一致するより教皇と不一致であるほうを選ぶのか、という皮肉がヨハネス・ケプラーの言葉として伝えられている。ドイツのプロテスタント諸邦が移ったのは1700年、イギリスとその植民地は1752年だった。このときずれは十一日に広がっており、1752年9月2日水曜日の翌日を9月14日木曜日とした。同時に、年の始まりを3月25日から1月1日に改めている。暦を変えられた民衆が「われらの十一日を返せ」と暴動を起こしたという話は広く知られているが、後世の誇張とされる。ホガースの版画に描かれた標語が独り歩きしたものらしい。実際には、地代や賃金をどう日割りするかをめぐる混乱と苦情はあった。アメリカの初代大統領ジョージ・ワシントンの誕生日は、旧暦では1732年2月11日だったが、彼は後に新暦の2月22日を使うようになった。

スウェーデンは独特の道をたどった。1700年から四十年かけて閏日を少しずつ抜き、ゆっくり移行しようとしたのである。1700年の閏日は予定どおり抜いたが、同じ年に始まった大北方戦争のさなかで、1704年と1708年の閏日を抜き忘れた。こうしてユリウス暦ともグレゴリオ暦とも合わない独自の暦になってしまい、1712年に元のユリウス暦に戻すため、2月30日という日を一度だけ作った。歴史上に実在した2月30日である。スウェーデンは1753年にあらためて新しい暦へ移った。

正教の国々はさらに遅かった。ロシアが新暦に移ったのはロシア革命の後の1918年で、そのため「十月革命」は新暦では11月に起きたことになる。ギリシアは1923年、トルコは1926年に移った。いまも多くの正教会は、教会の暦にはユリウス暦を使い続けている。ロシア正教のクリスマスが1月7日にあたるのはそのためである。

ロシア革命に関わる図版:Митинг на Невском проспекте (1917)
ロシア革命Wikimedia Commons unknown; photo retake by George Shuklin · Public domain

日本は明治5年12月3日を明治6年1月1日とし、太陰太陽暦からいきなりこの暦へ移った(太陽暦の採用)。理由の一つは政府の財政だったといわれる。旧暦のままなら明治6年には閏月が入って十三か月になり、月給制にしたばかりの官吏に十三か月分の給与を払わなければならない。改暦すれば十二か月で済み、しかも明治5年の12月は二日で終わるので、その月の給与も払わずに済んだ。中国では1912年に中華民国が新暦を採用したが、春節はいまも旧暦で祝われている。

いま世界の民事の暦は、ほぼすべてがこの暦である。イランやアフガニスタンのように独自の太陽暦を公式に使う国もあり、宗教の暦はそれぞれ別に生きている。それでも国際的な取引も通信も、四百年余り前にローマで決められた閏年の規則の上で動いている。次に一日のずれが目立つのは三千年あまり先のことである。

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