マニの処刑
概要
シャープール1世に守られた預言者が、その子バフラーム1世に鎖で繋がれ、26日で死んだ。ゾロアスター教の神官カルティールが背後にいた。皮を剥がれて門に吊るされた、と伝わる。信徒は東西へ散った。
場所
32.33°N 48.52°E · イラン・フーゼスターン州
関わった人(1)
マニAD216年–AD277年 · 預言者本文
マニは216年、ササン朝が興る少し前のメソポタミアで、のちの都クテシフォンの近くに生まれた。父パティークは、イラン系の貴族の出とされるが、マニが生まれるころ、ユダヤ教とキリスト教の要素をあわせ持ち、水で体を清める儀式を繰り返す教団に加わった。マニはその教団の中で育った。マニ自身の伝記によれば、12歳と24歳のとき、「双子」と呼ぶ天の存在が現れて真理を告げ、マニはやがて教団を離れて、自分の教えを説きはじめた。
マニはまずインドの方面へ船で渡って教えを広め、240年代のはじめ、ペルシアに戻った。そのころ、ササン朝の成立から間もないササン朝では、二代目の王シャープール1世が、ローマと戦いながら国を広げていた。マニはシャープールに謁見を許され、王の弟の取りなしもあって、その保護を受けた。マニは自分の教えをまとめた書を中期ペルシア語で書いて王に献じ、王の遠征にも同行したと伝えられる。王の庇護のもとで、マニの弟子たちはペルシアの各地とローマ帝国の東の国々に送り出された(マニ教の成立)。

マニの教えは、光と闇の二つの原理の戦いとして世界を説明する。光と闇は初めから別々に存在していたが、闇が光の世界に攻め入り、その戦いの中で光の一部が闇の物質の中に閉じ込められた。人の魂も、その閉じ込められた光の粒である。救いとは、知恵によってそのことを知り、自分の中の光を物質から解き放つことにある。マニは、ゾロアスター(ゾロアスターの教え)と、ブッダと、イエスはそれぞれの土地に遣わされた使者であり、自分はその教えを完成させる最後の使者だと説いた。
信者は、厳しい戒律を守る「選ばれた者」と、彼らを支える「聴聞者」に分かれていた。選ばれた者は肉や酒を口にせず、結婚もせず、財産を持たずに旅をして教えを説いた。マニは、師の言葉が弟子によって曲げられることを恐れ、自分で経典を書き、それに絵を添えた。絵の書と呼ばれるその書は失われたが、マニはのちのペルシアで、すぐれた画家の代名詞として語り継がれた。

シャープール1世が270年ごろに亡くなり、その子ホルミズド1世もマニを守ったが、在位は短かった。続いて王となったバフラーム1世の時代、宮廷で力を強めていたのは、ゾロアスター教の神官カルティールだった。カルティールは、ゾロアスター教を国の宗教として固め、ユダヤ教徒、キリスト教徒、仏教徒、そしてマニ教徒を退けようとしていた。カルティール自身が残した碑文には、マニ教徒などを打ちのめしたことを誇る言葉が刻まれている。
276年か277年ごろ(274年とする説もある)、マニは王の住むグンデシャープールに呼び出された。王はマニを責め、鎖につながせた。マニの信徒が伝える話では、マニは重い鎖をかけられたまま26日間を過ごし、弟子たちに最後の言葉を残して息を引き取った。60歳前後だったことになる。後のイスラームの書物などは、マニの遺体は皮をはがれ、中に藁を詰められて町の門に吊るされたと記している。どこまで事実かは分からないが、マニ教の信徒にとって、師の死はイエスの磔刑になぞらえられ、その日を記念する祭りが毎年祝われた。

マニの死のあと、ペルシアの信徒は激しい迫害を受け、多くが東と西へ散った。西では、教えはエジプトや北アフリカに広がり、若き日のアウグスティヌスは9年にわたってマニ教の聴聞者だった。のちにキリスト教に回心したアウグスティヌスは、マニ教を論駁する書を数多く書いた(アウグスティヌスの回心)。ローマ帝国はディオクレティアヌス帝の時代からマニ教を禁じ、キリスト教が国の宗教になると、迫害はさらに強まった。
東では、教えは中央アジアのソグド人の商人たちに受け継がれ、シルクロードを通って広まった。8世紀には、モンゴル高原のウイグル可汗国の君主が、マニ教を国の宗教として受け入れた。唐の国内でも、ウイグルの後ろ盾を得てマニ教の寺が建てられたが、ウイグルが滅びると(キルギスのウイグル打倒)、唐は843年にマニ教を禁じた。その後、教えは中国の南の福建に逃れ、明教などと呼ばれて、仏教や道教と混じり合いながら、明の時代まで細々と続いた。いまも、海の交易で栄えた泉州(泉州の海上交易)の近くの草庵という小さな寺には、14世紀に石に刻まれたマニの像が残り、摩尼光仏として祭られている。メソポタミアで鎖の中に死んだ預言者の教えは、ユーラシアの西の端から東の端まで旅をして、ついに消えていった。