人物

イマヌエル・カント

Immanuel Kant
AD1724年4月22日 – AD1804年2月12日(享年79)
プロイセン重要度 5

概要

ケーニヒスベルクから生涯ほとんど出なかった。57歳で『純粋理性批判』を出し、認識・道徳・美の三つの批判で哲学を作り直す。散歩の時刻で町の人が時計を合わせた。

関わったできごと(2)

『純粋理性批判』AD1781年 · 著者カント『永遠平和のために』AD1795年 · 書いた

本文

1724年4月22日、東プロイセンの港町ケーニヒスベルクの、馬具職人の家に生まれた。両親は敬虔主義と呼ばれる、内面の信仰と勤勉を重んじるプロテスタントの一派に属していた。カントは後年、両親の家で悪いことを見聞きした覚えはないと語っている。母はカントが13歳のときに亡くなった。

イマヌエル・カントの肖像
イマヌエル・カントの肖像Wikimedia Commons Johann Gottlieb Becker (1720-1782) · Public domain

敬虔主義の学校でラテン語を叩き込まれ、16歳でケーニヒスベルク大学に入った。そこでアイザック・ニュートンの物理学に出会ったことが、その後の思考の土台になる。父が亡くなると学業を続ける金がなく、20代の半ばから30歳近くまで、近郊の貴族や牧師の家で住み込みの家庭教師をして暮らした。

1755年、31歳で大学の私講師になった。私講師には大学からの給料がなく、学生から受け取る聴講料だけが収入になる。カントは論理学、形而上学、数学、物理学、さらに自然地理学や人間学まで、週に20時間を超える講義を受け持った。同じ年に出した『天界の一般自然史と理論』では、太陽系がガスの雲から生まれたという考えを示している。後にフランスのラプラスが似た説を唱え、二人の名を並べて呼ばれるようになった。

カントと友人たち
カントと友人たちWikimedia Commons Emil Doerstling · Public domain

正教授になったのは1770年、46歳のときである。ここからカントは、ほとんど何も発表しない10年余りを過ごす。後に「沈黙の10年」と呼ばれる時期で、その間に考え続けていたのは、人間の理性に何が分かり、何が分からないのか、という問題だった。カント自身は、イギリスの哲学者デイヴィッド・ヒュームを読んだことが「独断のまどろみ」から自分を目覚めさせたと書いている。原因と結果の結びつきは経験から確かめられるものではなく、習慣にすぎないのではないか、というヒュームの疑いを、正面から引き受けたのである。

1781年、57歳で『純粋理性批判』を出した。人間は世界をそのまま受け取っているのではない。空間と時間という見方の枠と、原因と結果のような考え方の型を、人間の側が持っていて、それを通して経験が成り立つ。だから経験の範囲では確かな知識が得られるが、神や魂の不死のように経験を超えたものについて、理性は答えを出せない。認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うと考えてみよう、というこの発想の転換を、カントはコペルニクスになぞらえた。本は難解で、出た当初はほとんど理解されなかった。

『純粋理性批判』に関わる図版:Immanuel Kant portrait c1790
『純粋理性批判』Wikimedia Commons Unknown, possibly Elisabeth von Stägemann (Anton Graff school) · Public domain

そこから10年たらずで、『実践理性批判』(1788年)と『判断力批判』(1790年)が続いた。三つの批判は、何を知りうるか、何をなすべきか、何を美しいと感じるのかを順に扱っている。

道徳についての答えは、結果や幸福ではなく、行いの原則そのものに置かれた。自分の行いの原則が、誰にでも当てはまる法則になるように行え。人間を、自分のものであれ他人のものであれ、単なる手段としてではなく、常に同時に目的として扱え。嘘をつくことが許されないのは、誰もが嘘をつく世界では約束という仕組みそのものが成り立たなくなるからだ、とカントは考えた。『実践理性批判』の結びには、考えるほどに感嘆と畏敬の念で心を満たすものが二つある、頭上の星空と、内なる道徳法則である、という一節がある。この言葉は後にカントの墓所の壁の銘板に刻まれた。

ケーニヒスベルクのカント旧居(1842年の絵)
ケーニヒスベルクのカント旧居(1842年の絵)Wikimedia Commons Friedrich Heinrich Bils · Public domain

同じ時期、1784年の論文「啓蒙とは何か」で、カントは啓蒙を、人間が自分で招いた未成年の状態から抜け出すことだと定義した。他人の指図なしに自分の頭で考える勇気を持て、と呼びかけている。

暮らしは規則正しさで知られる。朝5時に起き、午前は講義と執筆、昼食には友人を招いて何時間も語り合い、午後の決まった時刻に散歩に出た。町の人がその姿を見て時計を合わせたという話は、カントの規則正しさを語る逸話として広く伝わっている。ジャン=ジャック・ルソーの『エミール』を読みふけって散歩を忘れた日があったとも伝えられ、書斎にはルソーの肖像画だけを掛けていた。旅はほとんどせず、生涯ケーニヒスベルクとその近郊から出ていない。それでも自然地理学の講義では遠い国々のことを詳しく語り、港町に出入りする商人や船乗りの話から世界を知った。結婚はしなかった。

哲学者デイヴィッド・ヒューム、アラン・ラムジー画
哲学者デイヴィッド・ヒューム、アラン・ラムジー画Wikimedia Commons Allan Ramsay · Public domain

晩年には、国家の検閲とぶつかった。1793年の宗教論が当局の目にとまり、翌年、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の名で譴責を受けた。カントは、陛下の臣下として今後は宗教について公に論じないと約束したが、王が死ぬと、約束は王一代に対するものだったとしてふたたび書いた。

1795年、71歳でカント『永遠平和のために』を出した。戦争をなくすための条件として、常備軍をやがて廃止すること、各国が共和制をとること、自由な国家どうしが連合を作ることなどを挙げている。国民が戦争の費用と苦しみを自分で負う国では、戦争を始めることに慎重になるはずだ、という考えである。この構想は、20世紀の国際連盟の発足や国際連合の成立の遠い源流の一つとして読まれている。

カントの肖像、フリッシュ画(ベッカーの原画による、1770年頃)
カントの肖像、フリッシュ画(ベッカーの原画による、1770年頃)Wikimedia Commons Johann Christoph Frisch · Public domain

最晩年は記憶も体も衰え、講義もやめた。1804年2月12日、79歳で死んだ。最後に「これでよい」と言ったと伝えられる。生まれた町は第二次世界大戦の後にソ連領となり、いまはロシアのカリーニングラードという名になっているが、大聖堂の脇の墓は今も残る。

カント以後の哲学は、カントに賛成するにせよ反対するにせよ、カントを通らずには進めなくなった。人間の尊厳は何かの役に立つから尊いのではない、という考えは、今の人権の考え方の根にもつながっている。

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