ヘブライ語の復活
概要
典礼と学問には使われ続けたが、日常の話し言葉としては千数百年、誰も使っていなかった。エリエゼル・ベン・イェフダーは、パレスチナへ移り、家庭で息子にヘブライ語だけで話しかけた。近代の生活に必要な語が無い。彼は古い文献から掘り出し、アラビア語の語根から作り、辞書を編んだ。息子イタマルは、数年間、話し相手が父しかいなかった。学校での教授が広がり、二世代で話者が生まれる。死んだ言語が日常語に戻った、唯一の例である。
場所
31.77°N 35.21°E · イスラエル/パレスチナ
関わった人(1)
エリエゼル・ベン・イェフダーAD1858年1月7日–AD1922年12月16日 · 始めた本文
ヘブライ語は、死んだ言葉ではなかった。ただ、家族と話したり、市場で値段を交渉したりする日常の話し言葉としては、長いあいだ使われていなかった。古代のユダヤの人々の話し言葉は、紀元前後からしだいにアラム語に置き換わり、2世紀ごろまでには、ヘブライ語を母語として話す人はほとんどいなくなったとされる。それから千数百年がたっていた。
それでも、ヘブライ語は別の場所で生き続けていた。祈りと聖書の朗読の言葉として。律法を学ぶ学問の言葉として。そして、遠く離れた土地のユダヤ人どうしが手紙を書くときの共通の言葉として。東ヨーロッパのユダヤ人はイディッシュ語を、スペインから散ったユダヤ人の子孫はラディーノ語を、中東のユダヤ人はアラビア語を話していたが、書くときにはヘブライ語でつながることができた。19世紀には、ユダヤ人の啓蒙運動の中で、ヘブライ語で近代的な文学や新聞の文章を書く人々も現れていた。読み書きの言葉としては生きていた。だが、誰もそれで子どもをあやしてはいなかった。

それを変えようとしたのが、エリエゼル・ベン・イェフダー(1858〜1922年)である。もとの名をエリエゼル・ペレルマンといい、ロシア帝国の西部、いまのベラルーシにあたる村で、敬虔なユダヤ教徒の家に生まれた。律法の学院に送られたが、そこで世俗の本を読みふけり、伝統の世界から離れていった。
転機は、1877年から翌年の露土戦争だった。この戦争の結果、オスマン帝国の支配下にあったブルガリアなどのバルカンの民族が、自分たちの国を持つ道を開いた。新聞でそれを読んだ彼は、小さな民族も、自分の土地と自分の言葉を取り戻せるのだと考えた。ならば、ユダヤ人も。1879年、彼はヘブライ語の雑誌に論文を寄せ、ユダヤ人が民族として生き延びるには、祖先の地と、民族の言葉が要ると説いた。その言葉はヘブライ語でなければならない。イディッシュ語は離散の地で生まれた言葉だ、というのが彼の考えだった。

1881年、彼は妻のデボラとともにオスマン帝国領のエルサレムへ移り住んだ。旅の途中で、これからは二人のあいだでヘブライ語だけを話そうと決めたと伝えられる。翌1882年に長男が生まれた。のちにイタマル・ベン=アヴィと名乗る子である。父はこの子に、ヘブライ語以外の言葉を一切聞かせないと決めた。ほかの言葉を話す客が来ると追い返し、ほかの言葉を話す乳母も雇わなかったとも言われる。
すぐに壁にぶつかった。近代の暮らしに必要な言葉が、ヘブライ語には無かったのである。新聞、辞書、アイスクリーム、人形、タオル。古代の聖書の時代には存在しなかったものばかりだ。ベン・イェフダーは言葉を作った。まず聖書や古い律法の書、中世の文献の中から、忘れられた語を掘り起こす。次に、既にある語根から新しい語を組み立てる。ヘブライ語は三つの子音の語根に決まった型を当てはめて語を作る仕組みを持っていて、これが新しい語を作るのに大いに役立った。それでも足りなければ、同じセム系の言葉であるアラビア語から、対応する語根を借りた。辞書を意味する「ミロン」、新聞を意味する「イトン」、アイスクリームを意味する「グリダ」などは、彼が作った、あるいは広めた語とされる。

ただ、言葉を作ったのは彼一人ではない。同じ時代の作家や教師たちも次々に新しい語を考え、1890年には言葉を整えるための委員会が作られた。これはのちに、イスラエルの建国後のヘブライ語アカデミーへと受け継がれる。そして最終的にどの語が残るかを決めたのは、それを実際に使った人々だった。
息子イタマルは、数年のあいだ、話し相手が事実上父しかいなかった。なかなか言葉を話さなかったので母が心配し、こっそりロシア語の子守唄を歌ったところを父に見つかって大騒ぎになった、その直後に息子が初めてヘブライ語で話した、という話が残っている。これはイタマル自身の回想によるもので、脚色が混じっている可能性がある。いずれにせよ、この子が、千数百年ぶりにヘブライ語を母語として育った最初の子どもの一人とされる。

家庭だけでは言葉は広がらない。ベン・イェフダーは新聞を出し、新しい語を紙面で使ってみせた。読者はそれを読んで覚えた。彼はまた、古代から現代までのヘブライ語を集めた大きな辞書の編纂に生涯をかけた。辞書は彼の死の後も、二度目の妻や息子、後継の学者たちの手で書き継がれ、全17巻が完成したのは1959年のことである。
決定的だったのは学校である。1880年代から、パレスチナのユダヤ人の学校で、ヘブライ語で授業をする試みが始まった。初めは聖書や宗教の時間だけだったが、やがて算数や理科を含むすべての科目に広がった。教師たちは、教えながら教科の言葉を作らなければならなかった。1913年には、ハイファに新しく作られる工科大学で、理系の科目をドイツ語で教えるかヘブライ語で教えるかをめぐって「言語戦争」が起きた。ヘブライ語には技術の言葉が無い、というのがドイツ語派の主張だった。教師と生徒がストライキで抵抗し、最終的にヘブライ語が採られた。
1904年から第一次世界大戦の前にかけて東ヨーロッパから移ってきた若い移民たちは、ヘブライ語を新しい民族の言葉として積極的に選んだ。生まれ育ったイディッシュ語を捨てようとする動きは、ときに行き過ぎ、イディッシュ語の催しが妨害されることもあった。1917年のバルフォア宣言の後、イギリスが委任統治を始めると、1922年、ヘブライ語は英語とアラビア語と並ぶ公用語の一つになった。ベン・イェフダーが亡くなったのは、その年の12月である。

反対も強かった。正統派のユダヤ教徒の一部にとって、ヘブライ語は神聖な言葉であり、それを市場や台所の言葉にするのは冒涜だった。エルサレムの一部の共同体はベン・イェフダーを激しく攻撃し、1893年には、彼がオスマン帝国への反乱をあおったと当局に訴え出た。彼は投獄されたが、まもなく釈放された。いまも一部の超正統派の人々は、日常にはイディッシュ語を使い、ヘブライ語を祈りの言葉に限っている。私生活でも苦しみは続いた。最初の妻デボラは1891年に結核で亡くなり、彼は彼女の妹と再婚した。
ヘブライ語の復活は、別の言葉の衰えと引き換えでもあった。イディッシュ語、ラディーノ語、ユダヤ系のアラビア語は、イスラエルの建国の後、新しい国の中で急速に話されなくなった。最大の原因は、ホロコーストでイディッシュ語を話す人々の大部分が殺されたことである。加えて、建国期の国はヘブライ語を一つの国民の言葉として強く押し出した。近年は、失われかけた言葉を見直し、受け継ごうとする動きもある。

いま、ヘブライ語を日常の言葉として使う人は約900万人、そのうち母語とする人は500万人を超えるとされる。言語学者の中には、現代のヘブライ語は古代のヘブライ語と同じものではなく、発音や文の組み立て、言い回しにイディッシュ語やスラブ系の言葉、ヨーロッパの言葉の影響が深く入っていると指摘する人もいる。その一人ギラド・ツッカーマンは、これを「イスラエル語」と呼ぶべきだと主張しており、議論が続いている。
それでも、日常の話し言葉として途絶えた言葉が、再び何百万人もの人の日常の言葉に戻った例は、ほかにほとんど見当たらない。アイルランド語、ウェールズ語、マオリ語、ハワイ語、アイヌ語などでも、言葉を取り戻す努力が続いているが、ここまでの広がりにはなっていない。ヘブライ語の場合、世界中から集まった移民たちが互いに通じ合える共通の言葉をほかに持たなかったこと、そして建国後は国家がそれを全面的に支えたことが、大きかったと考えられている。同じ19世紀の終わりには、民族の言葉ではなく誰の言葉でもない共通語を作ろうとする試みもあった(エスペラント)。言葉は作れても、それを母語として育つ子どもがいなければ、言葉は生き返らない。