人前で、体を開く
概要
ボローニャ大学の医師モンディーノ・デ・リウッツィが、人の体を学生の前で開いた。医学は千年のあいだ、ガレノスの書物を読むことで教えられてきた。解剖そのものが禁じられていたというより、遺体をどう手に入れ、誰の目に触れさせるかが重かった。用いられたのは処刑された者の体である。教授が高い椅子から書を読み上げ、床屋外科が刀を入れ、助手が該当の部位を指す。翌年に書かれた手引きは、二百五十年にわたって教室で読まれ続けた。見ることが、読むことの下に置かれた時代が、ここから終わっていく。
場所
44.49°N 11.34°E · イタリア
本文
中世の大学で、医学は書物の学問だった。教室で読まれたのは、2世紀のローマで活躍した医師ガレノスの著作と、それをもとにイスラーム世界でまとめられた医学書(『医学典範』など)である。ガレノスの著作はギリシア語からアラビア語に訳され、さらにラテン語に訳されてヨーロッパに戻ってきた。教授はそれを読み上げ、注を付け、学生は書かれたことを覚えた。
そのガレノス自身、人の体はほとんど開いていない。剣闘士の傷の手当てで体の中をのぞく機会はあったが、詳しく解剖したのは豚や猿だった(ガレノスの医学)。だから書物には、動物の体の作りが人のものとして書かれているところがある。ところが体を開かずに読むだけなら、書かれていることと実際にそこにあるものが食い違っていても、誰も気づかない。

よく「中世の教会は解剖を禁じていた」と言われるが、これはそのままでは正しくない。1299年に教皇ボニファティウス8世が出した教書は、十字軍などで遠い土地で死んだ者の遺体を煮て骨だけにし、故郷へ運ぶ風習を禁じたもので、解剖を名指しで禁じたものではなかった。イタリアの都市では13世紀の終わりごろから、死因を確かめるために遺体を開くことが行われていた。毒殺かどうかが裁判で争われることがあり、1302年には、ボローニャの医師たちが法廷の求めで死者の体を開いた記録が残っている。本当に重かったのは、誰の体を使うのか、そしてその体を遺族や町の人々がどう受け止めるかだった。
モンディーノ・デ・リウッツィ(1270年ごろ〜1326年)は、ボローニャの薬種商の家に生まれ、ボローニャ大学(ボローニャ大学の創立)で学び、そこで医学を教えた。1315年、彼は学生たちの前で人の体を開いた。本人の書いたものによれば、その年の1月と3月に女性の遺体を解剖している。使われたのは処刑された者など、引き取り手のない体だったと考えられている。そうした体なら、咎められにくかった。

当時の解剖の場面は、のちの書物の挿絵から想像されている。教授が高い椅子に座って書物を読み上げる。その下で、床屋外科が刃物を入れる。当時、体に刃を当てるのは学問のある医師ではなく、ひげ剃りと瀉血を兼ねる職人の仕事だった(理髪師と外科医が分かれる)。そして助手が、いま読み上げた箇所はここだ、と棒で指す。体を開いてはいても、上にあるのは書物で、体はその挿絵のように扱われていた。ただしモンディーノは自分でも刃物を手に取ったと伝えられる。教授が自ら手を汚すこと自体が、当時としては一つの踏み越えだった。
翌1316年、モンディーノは解剖の手引きを書き上げた。『アナトミア(解剖学)』と呼ばれる短い本である。特徴は、手順の順番が書いてあることだった。冷やして保存する手段がないので、腐りやすい腹から開き、次に胸、最後に頭と手足へ進む。一体を数日で使い切るための段取りである。そのうえで、何がどこにあるかを部位ごとに説明した。ガレノスの記述に引きずられた誤りもそのまま入っている。たとえば、肝臓が五つの葉に分かれているといった動物由来の記述が残っており、見たものより読んだものを採ったところがあった。
それでもこの本は、15世紀に印刷されてさらに広まり、およそ二百五十年にわたって大学の教室で使われ続けた。大学の規則に、解剖の講義ではモンディーノの本を用いること、と書かれたところもある。体を開いて学ぶことを、決まった手順として教室に持ち込んだのは、この本だった。
解剖用の遺体は、その後もずっと足りなかった。大学に割り当てられる処刑された者の体は、年に一体か二体ほどにすぎない。少ない体をできるだけ大勢に見せるために、すり鉢形の階段席で一つの台を囲む解剖劇場が作られた。いまも残るパドヴァ大学のものは1595年、ボローニャのものは17世紀の建造である。体の取り合いは、19世紀イギリスの解剖法の時代まで続く。
1543年、ヴェサリウス『ファブリカ』が出版された。ヴェサリウスは自分で体を開き、自分の目で見て、ガレノスの誤りを次々に指摘した。書物より体のほうが上に来る。モンディーノの教室は、その転換の手前にあった。読むための解剖が、見るための解剖へ変わっていく最初の一歩である。
遺体をどう扱うかは、科学の話である前に、誰の遺体なら開いてよいかという線引きの話でもある。その線は、長いあいだ同じところに引かれた。罪人、貧しい者、引き取り手のない者。つまり、文句を言う家族がいない者である。