正始の音(玄学の始まり)
概要
魏の正始年間。何晏が『論語集解』、王弼が『老子注』『周易注』。「無を本とする」。儒教と老荘を一つに。清談。王弼は24歳で死に、何晏は司馬懿に殺された。竹林の七賢が続いた。中国の哲学は、200年、「無」を語った。
場所
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省
関わった人(2)
王弼AD226年–AD249年 · 老子注何晏AD195年–AD249年 · 論語集解本文
3世紀の前半、中国では後漢が滅び、魏・呉・蜀の三国が並び立っていた。北の魏では、曹操の孫の明帝が239年に若くして死に、8歳の斉王曹芳が位を継いだ。翌240年から249年までの年号が正始である。政治の実権は、皇族の曹爽と、老将の司馬懿の二人に託されたが、やがて曹爽が司馬懿を退けて、朝廷を握った。
曹爽のもとで、人事を取りしきる吏部尚書の地位についたのが何晏である。後漢の大将軍何進の孫で、母が曹操の妾になったため、宮中で曹操の子らとともに育った。才気に富み、色白で、身なりに気を配り、薬を飲み、議論を好む。都の洛陽の若い貴族たちの中心にいた人物だった。

この時代の洛陽では、貴族たちが集まって、『老子』『荘子』、そして儒教の経典の一つ『周易』を論じ合うことが流行した。三つの書は合わせて「三玄」と呼ばれる。玄とは、奥深く、目に見えないものを指す。こうした議論を清談といい、そこから生まれた哲学を玄学という。
背景には、漢の時代の儒教への行き詰まりがあった。漢の儒学は、経典の一字一句に注をつけ、さらにその注に注をつける学問になっていた。天のしるしや予言で政治を説明する讖緯の説も幅をきかせた。後漢の末の戦乱と王朝の崩壊は、そうした学問の権威を大きく揺るがした。目の前の秩序が崩れたとき、知識人たちは、世界の根本は何かという問いに向き合うことになる。
何晏は、孔子の『論語』のそれまでの注を集めて整理し、『論語集解』を編んだ(『論語』の成立)。『論語』の注釈としては、完全な形で残る最も古いものである。そして、天地万物はすべて「無」を根本とする、と説いた。

この何晏が舌を巻いたのが、20代の青年王弼だった。王弼は、何晏より30歳ほど若い。若くして『老子』(『老子』の成立)と『周易』に注をつけ、その深さで洛陽の人びとを驚かせた。何晏は自分も『老子』の注を書きかけていたが、王弼の注を読んで自分の注をあきらめ、別の論文に書き改めたと伝えられる。
ある人が王弼に問うた。無が万物の根本だというなら、なぜ聖人の孔子はそれを語らず、老子ばかりが無を説き続けたのか。王弼は答えた。聖人は無を身をもって体現している。だが無は言葉で説明できるものではない。だから聖人は、言葉を使うときには有のことを語る。老子はまだ有の側にいる人で、だから足りない無のことをくり返し説いたのだ。孔子を否定せず、孔子こそ無を体現した最高の聖人だと読み替えることで、王弼は儒教と老荘の思想を一つにつないだのである。
王弼は、言葉の限界についても論じた。意味をつかんだら、それを表す形は忘れてよい。形をつかんだら、それを表す言葉は忘れてよい。魚を取るための籠は、魚を取ったら忘れてよいように。これは『荘子』(『荘子』)のたとえを借りたものだが、王弼はそれを経典の読み方そのものに当てはめた。言葉にこだわらず、その奥の意味をつかめ。この考え方は、のちの中国の詩や絵の理論、そして禅の考え方にまで長く影響を与えた。
正始の時代は、10年で終わった。249年の正月、司馬懿は皇帝が都を出た隙にクーデターを起こし、曹爽の一派を倒した(高平陵の変)。何晏も捕らえられ、一族とともに処刑された。王弼は免職され、その年の秋に疫病で死んだ。24歳だった。

のちの東晋の時代、清談を好む人びとは、何晏と王弼の時代の議論を「正始の音」と呼んで、清談の黄金時代として懐かしんだ。司馬氏が実権を握ったあとの時代、次の世代の知識人たちは、権力との関わりを避けて竹林に集い、酒を飲み、琴を奏でたと伝えられる(竹林の七賢)。その一人の嵆康は、儒教の名分の秩序を越えて、自然のままに生きよと説き、のちに司馬氏によって処刑された。王弼が一つにつないだ儒教の秩序と自然とは、ここで再び引き裂かれた。
玄学は、西晋の郭象の『荘子』の注などに受け継がれ、およそ200年にわたって中国の知識人の思想の中心にあった。その「無」や「空」をめぐる議論の言葉は、ちょうどそのころ中国に根づきはじめた仏教の教えを理解するための手がかりにもなった。