サリドマイド禍

概要
つわりに効く安全な睡眠薬として西ドイツで市販され、46か国に広がった。動物実験では毒性が出ず、処方箋なしで買えた国もあった。生まれた子に、腕や脚のない、あるいは極端に短い障害が現れた。世界で約1万人。1961年、ドイツのレンツとオーストラリアのマクブライドが薬との関係を指摘し、回収された。アメリカでは審査官フランシス・ケルシーが承認を保留し続けて被害を防いだ。以後、薬の承認に催奇形性の試験と厳格な手続きが要求されるようになった。
場所
53.55°N 9.99°E · ドイツ
本文
1950年代の半ば、西ドイツのアーヘンに近いシュトルベルクの製薬会社グリューネンタールが、ある化合物を作った。新しい抗生物質を探す研究の途中でできたもので、細菌を殺す力は無かった。ところが、動物に与えてみると、いくら量を増やしても死なない。致死量が見つからないほどだった。会社はこれを、安全な鎮静薬・睡眠薬として売り出すことにした。成分の名はサリドマイド、商品名はコンテルガン。1957年10月、西ドイツで発売された。
宣伝の言葉は「安全」だった。飲みすぎても死なない、子どもが誤って飲んでも心配がない。当時の睡眠薬の多くは量を誤れば命にかかわったから、この安全さは大きな売りになった。妊婦のつわりを和らげるとも宣伝された。西ドイツでは一時、処方箋なしで買えた。薬は他の会社にも使用が許され、さまざまな商品名で40を超える国に広がった。イギリスではディスタバル、日本では大日本製薬のイソミンなどの名で売られた。

1959年ごろから、各地の産科医が、ほとんど見たことのない障害を持つ赤ちゃんに出会うようになる。腕や脚が極端に短いか、まったく無い。手が肩から直接生えているように見える子もいた。アザラシの鰭にたとえて「アザラシ肢症」と呼ばれる形である。耳や目の異常、心臓や腎臓、腸の奇形を伴うことも多かった。それまで年に数例あるかどうかの珍しい障害が、西ドイツで数百、数千という単位で現れ始めた。
原因を突き止めたのは、ハンブルク大学の小児科医ヴィドゥキント・レンツだった。障害を持って生まれた子の親を一軒ずつ訪ね、妊娠中に何を食べ、何を飲んだかを聞き取っていくと、母親の多くがコンテルガンを飲んでいた。1961年11月15日、レンツはグリューネンタールに電話で警告し、18日には小児科の学会で疑いを報告した。会社は因果関係を否定したが、新聞が報じると、月末に薬は西ドイツの市場から引き揚げられた。

同じころ、オーストラリアのシドニーの産科医ウィリアム・マクブライドも、別にこの薬を疑っていた。彼が1961年12月、医学誌『ランセット』に短い手紙を寄せ、警告は世界に広がった。マクブライドはこの功績で名を上げたが、のちに別の薬の研究でデータを偽ったことが明らかになり、医師の登録を抹消されている。
各国は回収に動いた。イギリスは12月初めに販売を止めた。日本では対応が遅れた。西ドイツの回収を知りながら販売は続き、出荷が止まったのは翌1962年5月、回収はその年の9月だった。その間に服用した母親から生まれた子どもが、日本の被害をさらに増やした。

胎児が影響を受けるのは、受精からおよそ20日目から36日目までという、ごく短い期間である。ちょうどこの時期に、手足や耳のもとになる組織が作られる。そして多くの女性は、その時期にはまだ自分が妊娠していることに気づいていない。つわりが始まるのも、ちょうどそのころだった。たった一錠で障害が起きた例もあったとされる。
障害を持って生まれた子どもは、世界でおよそ1万人と推計される。その半数近くは、重い内臓の障害のために生後まもなく亡くなった。西ドイツだけで5000人前後、イギリスで数百人、日本では309人が被害者として認定された。

アメリカでは、被害がほとんど出なかった。その理由として名が挙がるのが、食品医薬品局(FDA)の審査官フランシス・ケルシーである。カナダ生まれの薬理学者で、1960年8月に着任したばかりの彼女に最初に回ってきたのが、この薬の承認の申請だった。ヨーロッパではすでに広く売られている薬で、すぐ済むはずの仕事とみられていた。
ケルシーは承認しなかった。長く飲み続けたときの安全性を示すデータが足りない。イギリスの医師から、手足のしびれなど神経の障害が出ているという報告がある。そして、薬が胎盤を通って胎児に届くかどうかのデータが無い。彼女は以前の研究で、薬が胎盤を通ることを知っていた。申請した会社は書類を何度も出し直し、上司に苦情を言い、彼女を頑固な役人だと非難したが、彼女は保留を続けた。そのうちにヨーロッパから被害の報せが届いた。1962年8月、ジョン・F・ケネディ大統領はケルシーに、文民に与える最高の勲章の一つを授けた。

事件は薬の規制を変えた。アメリカでは1962年10月、新しい薬には安全性だけでなく効き目の証明も求め、きちんと管理された臨床試験と副作用の報告を義務づけ、試験の参加者から同意を得ること(戦後のニュルンベルク綱領が掲げた原則)を定める法改正が成立した。各国もこれに続き、妊娠中の動物に薬を与えて胎児への影響を調べる試験が、新薬の承認に欠かせない項目になった。日本では1963年から被害者の家族が国と製薬会社を訴え、1974年に双方が責任を認めて和解した。のちの薬害エイズでも、危険を知りながら対応が遅れた構図が繰り返されることになる。
なぜ動物実験で毒性が見つからなかったのか。初めの試験に使われたラットやマウスでは、この薬による胎児の異常が出にくい。ウサギやサルでは出る。動物の種類によって、薬の効き方が大きく違ったのである。動物で安全なら人でも安全という前提の危うさを、この事件は示した。
サリドマイドの分子には、右手と左手のように鏡に映した関係にある二つの形がある。一方が眠りを誘い、もう一方が胎児に害を与えると考えられた時期もあった。しかし、どちらか片方だけを飲ませても、体の中で互いに入れ替わってしまう。安全な形だけを取り出すことはできない。2010年には、日本の研究者たちが、サリドマイドが体の中で結びつくたんぱく質を突き止め、障害が起きる仕組みの解明が大きく進んだ。
この薬には、思いがけない後日談がある。1964年、イスラエルの医師ヤコブ・シェスキンが、眠れずに苦しむハンセン病の患者に、病院に残っていたサリドマイドを与えたところ、合併症の皮膚の激しい炎症が引いた。のちに、血管が新しく作られるのを抑える作用も分かった。胎児の手足の成長を止めたまさにその働きが、腫瘍には効く。いまサリドマイドは、ハンセン病の合併症や、血液のがんである多発性骨髄腫の治療に使われている。妊娠を厳しく避ける管理のもとでのことである。
被害者たちはいま60代になった。短い手足で長年暮らしてきた負担から、関節や背骨、内臓に新たな障害を抱える人が多い。2012年、グリューネンタールは初めて公に謝罪した。被害者の団体は、50年遅いと応じた。